昭和41年 1月18日 東京拘置所の移転決定
昭和41年 1月18日 政府は一月十四日未明の臨時閣議で、四十一年度の予算政府案を決定、同日午後一時からの閣議でこれを確認。この中に「東京拘置所」移転費五十七億八千万円が組み込まれ、議会を通過すれば四月から移転作業が進められることになった。 東京拘置所の移転が決まってから七年目、一時は移転候補地の難行から「池袋副都心」計画に不安を感じさせていたが、この移転予算の決定によって拘置所の移転は確定、副都心池袋の道がひらけた。
昭和41年 2月1日 戦後の落とし子に厳しい春
昭和41年 2月1日  昭和二十一年の夏の終わり、占領軍からのたった一枚の命令書で、長年住み慣れた東京拘置所(西巣鴨一の三二七七)付近から追い払われ、千早一丁目に移り住んだ人たちがいる。 そして二十年を経過した今日になって「その場所は、都市計画で指定を受けている公園予定地だから、立ち退いてもらいたい」という“くらやみから牛”のような話が持ち上がって住民を驚かしている。 敗戦という大きな痛手からようやく立ち直り、世界の東京、池袋副都心などとさわがれている中で、再開発で脚光を浴びている東京拘置所の姿とはうらはらに、「戦後の落とし子」として語られ、厳しい現実がある。 昭和二十年八月十五日の終戦によって、連合軍が進駐してきた。それとともに東京の各地の施設が軍用施設として接収され、そのなかに巣鴨拘置所もあった。 連合軍は、豊島区の巣鴨拘置所に戦争犯罪人を収容する目的で接収にのりだし、周辺の民有地についても接収することを日本側に示してきた。この巣鴨拘置所周辺地域の接収期限は二十一年九月二十五日までに引渡し。連合軍から連絡を受けた日本政府は、接収要求にもとづいて、外務省の一部局である「終戦連絡事務局」が、「東京都終戦連絡委員会」に伝達、都の渉外部が建設局土地課に依頼して周辺地区接収の事務処理にあたった。 接収地に指定された西巣鴨一丁目に居住していたうちの四十五世帯は、引っ越していくところがない。しかし、連合軍の命令は絶対的なもの。豊島区は自力で移転が不可能な人たちのために、都の終戦連絡委員会と協議し、都市計画として公園に予定されていた千早町一丁目の都有地(五、二五〇平方b)を借り受け、区長(藤岡数三郎氏)の責任で四十七世帯に貸した。 住む家を追われた四十七世帯の人たちは、敗戦で物資も輸送力もない現実の下で、牛車や馬車をたのみ、焼け残ったわずかな家財と焼けた柱、焼けたトタンなどを積んで、千早町に引っ越した。区も土地は斡旋したものの、板切れ一枚、釘一本も配給できない状態だった。 この移転地は彼らにとって決してよい環境とはいえなかった。まず水が無い、土地が泥田のように荒れている。さらに苦しかったことは、近所に白眼視された。水もくれない、窃盗事件があれば犯人は「巣鴨部落」の人だといわれ、子供たちは学校から泣いて帰ってきた。 しかし、彼らの努力が実って水道も引け、近所の人たちの理解も得られるようになり、いつか巣鴨の住民も千早町の住民として戦争の傷あとを忘れかけ、二十年の時が流れた。 この間、公園予定地の貸借契約は、都との間に二年更新で続けられてきたが、
昭和41年 2月1日 三十六年以降都は再新を行わず、この春になってから急に立ち退き問題を前面に出してきた。都の考えとしては、「戦後二十年もたち、終戦当時の土地関係が整理の段階に入ってきた」というが、整理される方にとっては一大事で、都の公園課と話し合ったり、町内で会合をもったり、あわただしい。 それに昨年四月から、地方自治法の改正によって、公園の設置は区長の権限になり、この都有地の解決も区が行うことになったので、区としても「事情を聞けば整理が難しく同情するが、誠意を持って解決したい」と建設部管理課長。
昭和41年 2月20日 一億円越す競馬益金
昭和41年 2月20日 区営競馬収入は毎年上昇線をたどり、四十年度豊島区の競馬益金の配当は二月一日までに八千二百三十万円が区の金庫に収納され、年度末の三月までに開催される予定の区営競馬で約三千万円の収益金が予想されることから、豊島区の四十年度の競馬収入は概算で一億一千二百万円となる。
昭和41年 3月20日 汚染井戸を発見
昭和41年 3月20日  昨年の夏から暮れにかけて池袋東三丁目を中心に「集団腸チフス」が発生し、大きな社会不安を巻き起こした。その後、池袋保健所で徹底した原因究明をしたところ、同地域内で腸チフス菌に汚染された井戸二か所を発見した。同保健所では直ちに使用を禁止にするとともに、これからの流行期をひかえて集団発生を予防するため例年より早く予防接種を実施することにした。
昭和41年 4月26日 池袋西口センターオープン。自力で建てた共同ビル
昭和41年 4月26日  高層ビルが続々と建設されている池袋副都心の西口に「池袋西口センタービル」が五月一日にオープンする。焼け跡からマーケットへ、そして区画整理という大きな試練を乗り越えて、池袋商人が自力で建てた共同ビルで、池袋の明日の発展につながるものと大きな期待を集めている。 池袋西口商業共同組合(堀田文仁理事長)が昭和三十九年四月に都有地の払い下げを正式に受けて、組合員の自力でショッピングビルを建設した。四三〇平方bの敷地いっぱいに、地下二階、地上八階の近代的なビル。 池袋西口のマーケットの人たちが終戦の落とし子として、この土地をおわれたのは昭和三十五年の暮。あれから五年余、その間に西口一帯は近代的な区画整理によって、見ちがえるばかりの街づくりが進められた。しかし、当時マーケットで営業していた人たちは、三・三平方b当たり百万円強という払い下げ価格に手が出ず、ほかの場所に移っていった人が多かった。こうした中で、センターを計画した池袋西口協同組合の人たちは、土地の払下げを受けて、必ずここに帰ってくるのだという信念から組合の団結を固め、ここに共同ビルを建てて再スタートに踏み出したことは賞賛される。
昭和41年 9月6日 「あけぼの号」好評
昭和41年 9月6日  豊島区は、貸し出し用の移動図書館「あけぼの号」を八月からスタートさせた。常時約千冊の本を積み込んで、あらかじめ決めてある区内のステーションをまわって貸し出しをしている。この移動図書館は、当分の間個人貸し出しは行わないが、各ステーションのまわりには、団体貸し出しのグループが生まれる話も持ち上がって、スタート早々好評だ。
昭和41年 10月25日 池中の生徒、ハワイから強制送還
昭和41年 10月25日  太平洋上を航行中のリベリア貨客船「オリエンタル・ジェート号」(九六四四d)で発見された三人の日本少年は、ハワイから送られた電送写真で豊島区立池袋中学校三年生の三人であることが確認され、空路日本へ強制送還されることになった。 区教育委員会指導室の調査によると三人は、十月十三日から学校を休んでおり、同夜はAの家に三人で泊り、翌日「山へ行く」と親にいって家を出たという。 三人のうち、二人の家庭は要保護家庭、一人の家庭の母親は夜の勤めで、それぞれ家庭的に問題があり、子どもが学校を休んで山へ行くことに反対もせず、さらにそのことを学校に連絡もしていないことから「今回の密航は、親の無関心」にも大きな責任があるようだ。 強制送還された後の取り扱いについて教育委員会指導室は「子ども心に海外雄飛の夢を見たのだろうが、学校で英雄気取りになって他の生徒に自慢されることがこわい。動機などを調査して、ふたたびこのようなことのないようにしたい。旅費などは保護者の負担になるが、支払能力がなければその取り扱いをどうするか、残された問題は多い」と話している。
昭和41年 11月15日 「煙い教室」を解消
昭和41年 11月15日  区教育委員会は、冬の教室暖房に、この冬から区立小中四十三学校の全教室で煙の少ない、火力の強いコークスを使うことになった。石炭は重量がコークスの三倍もあり、運搬が不便なだけでなく、火力も劣り、ガスが多く、時には煙が教室内に充満してしまうこともあり、健康上にも問題があった。
昭和41年 12月13日 全校で「地財法」を無視
昭和41年 12月13日  昭和三十六年から「地財法」によって禁止されているにもかかわらず、PTAから助成金などの名目で施設、運営、人件費などを徴収している学校があり、その実態が「豊島子どもを守る会」(園田時会長)によって明らかにされた。 この調査は、特に問題の多い区立中学校十三校を対象に行われたが、調査できなかった一校を除く十二校がPTAの一般会計とは別に助成会や賛助会などの“裏会計”で最高年額は二百万円から最低二十五万円を徴収していたことがわかった。総額は一千百十三万八千三百十九円で、生徒の月額負担は三十五円から百六十五円となっている。 これは、「地財法」で一般会計の監督が厳しくなったためで、このほか把握しにくい臨時徴収を含めると“負担軽減”どころか、逆に“負担増額”になっているのではないかという。区教育委員会でも今まで実態を知らなかっただけに、この「子どもを守る会」の調査結果にびっくり。来年度からさらに強い手段で“裏会計”の一掃に乗り出す方針を固めた。また、「守る会」でも近く、この資料をもとに区議会に正しい義務教育の姿勢づくりのために請願することになっている。