昭和44年
昭和44年 2月25日 区の「広報」、都のコンクールで2位に
昭和44年 2月25日  月刊「豊島区広報」がこのほど開かれた東京都の広報紙コンクールで、第二位に入賞した。 このコンクールは、昭和四十三年中に発行した自治体の広報誌を対象にしたもので、都内二十三区と都下十七市の計四十区市が参加した。その中で、内容やレイアウトなどが審査され、豊島区と墨田区が最終審査まで残った。そして新聞社など専門家の投票によって九対七で墨田区に軍配が上がった。 豊島区の広報担当者は「墨田区の広報紙は大判で、しかも毎回八ページ。迫力がちがいます。あと一息で全国大会に出場できたのに」と残念がっている。
昭和44年 5月20日 「バス住宅」区が解決に乗り出す
昭和44年 5月20日  戦後の生きるのが精いっぱいという混乱の中で、住むに家なく、やむなく公有地に家を建てて、そのまま二十余年間、家賃も地代も払わずに住んでいる例が区内にも多い。南長崎六丁目の通称「バス住宅」もその一つ。個々のケースをみると気の毒な面もあるが、中には善意の人をだまして家を転売し、公有財産を侵害して不当な利益をあげた人もいて、周囲の住民から「区は何をしているのか」と非難を受けている。このため区では、戦後二十余年たった現在、公有地の適正な管理と、善良な住宅を保護するため、いよいよ積極的に解決に乗り出すことになり、実地調査とともに解決に必要な具体的な提案の作成に入り、区議会の同意を得て住民と話し合いに入ることになった。
昭和44年 5月27日 豊島区民センター落成
昭和44年 5月27日  豊島区民の福祉生活、文化生活をより豊かにと、区が二か年計画で東池袋一の二〇に建設(大成建設施工)した「豊島区民センター」の落成式が二十三日、同センターで行われた。この区民センターは、区民相談、商工、社会教育、婦人の四つのセンターを合わせた機能を持つ総合施設。 二十三日の落成式には、招待者約三百人が出席し、六階文化ホールで式典が行われた。オープンは六月一日。
昭和44年 5月27日 「みのり保育園」苦難の道十年
昭和44年 5月27日  池袋本町三の二十九「みのり保育園」(帰山裕子園長)が東京都の無許可保育園整備計画によって、この八月に鉄筋の三階建てに改築されることになり、各方面に協力を求める募金活動をはじめた。 「みのり保育園」は、十年前に池袋の氷川神社境内で青空保育園としてスタートした。以来、帰山さんと地元の人たちの情熱で、さまざまな苦難を乗り越え、数年前に久保田昭夫弁護士らの斡旋で、土地百五十八平方bを四百七十五万円で買収して保育園を建てた。現在は木造の平屋建ての家で七十余人の保育をしている。新しい保育園は、鉄筋三階建ての延べ二百六十四平方bで、総工費は約千三百七十万円。国庫から百万円、都から五百二十万円の補助、東京都社会福祉協議会から六百万円を借り入れ、不足分を一般の募金に求めようという。
昭和44年 8月5日 自転車で日本を一周
昭和44年 8月5日  夏休みを利用して自転車で野宿をしながら日本一周の計画を進めている“猛烈教師”がいる。豊島区立富士見台小学校の教師小山正彦さん(42)ら三人で、四十一年の房総一周をかわきりに、四十二年は鹿島から太平洋岸を北上して三陸へ。四十三年には三陸から下北半島まで。今年は下北半島から日本海側を通って新潟までの計画。出発は八月二十日で、帰京は三十日の予定。区教育委員会指導室の鈴木室長は「非常に意義のある計画で、ぜひ最後までやりとおしてほしい」と激励している。   この三人は、小山さんのほか、区立高南小学校事務職員の香椎成さんと前富士見台小学校教師の剛家正士さん。
昭和44年 9月9日 池袋西口に国鉄のコンテナ基地
昭和44年 9月9日  池袋駅西口前の国鉄東京電気工事局が八月二十四日に新宿国鉄総合ビルに移転した。この跡地に国鉄が「コンテナ基地」を建設する動きがあり、地元では猛反対をしている。豊島区議会の副都心委員会も、今週早々に国鉄に対して「絶対反対」の意思表示をすることになった。コンテナ基地は必要だろうが、そのために池袋駅の前を使わないでほしいと訴えている。 この国鉄東京電気工事局跡地は、池袋西口東武スカイパーキングの前で、国鉄の線路に面した駅前繁華街のすぐ横手にある。敷地面積は約四、四五〇平方b。隣接地には芝浦工大付属高校があり、これも移転の話がある。副都心池袋としては、学芸大跡地の再開発とともに、池袋地域再開発の拠点にも当たる場所だ。
昭和44年 9月16日  学芸大付属豊島小跡地の再開発
昭和44年 9月16日 池袋西口学芸大付属豊島小学校の跡地再開発計画について東京都は、四十四年度中に基本構想を固めたいという意向。四十五年度には建設プランを外部委託するため、その予算を組む関係から十一月中に一応の基本構想をたてる。 都はこのため、跡地開発に地元豊島区がどのような希望をもっているのか諮問していた。 豊島区が提出した要望案は、六千平方b以上の都民劇場、三千平方b以上の美術館、五千平方b以上の宇宙科学館の三つを併せた教育文化施設。そのほかに第二順位として産業経済施設として物産館と産業文化ショールーム。それぞれに九千六百平方bの人口庭園を付設してほしいというもの。
昭和44年 10月21日 消える池袋の都電
昭和44年 10月21日  昭和の初めから池袋駅東口を始発駅としていた17番の都電が二十六日の朝から姿を消す。都は、赤字に悩む都電財政を救うとともに交通近代化のため、都電を廃止し、そのかわりにバスを運行させる計画を進めてすでに三年目になり、その波が池袋にも押し寄せてきた。 池袋に都電が乗り入れるようになったのは昭和十四年四月一日からで、当時は文京区護国寺前までしかなかった軌道を、池袋駅まで一・九`延長したもの。古老の話では、この線は目白に延ばされる計画もあり、池袋がむしろ旗を立ててもと運動してやっと誘致したという。これが時代の流れで姿を消すのは淋しい。 この都電が走る前は、池袋と都心を結ぶ交通機関はなく、この線路が田舎町の盛り場に過ぎなかった池袋を、今日の副都心池袋にしたとも言える。 池袋の交通を振り返ってみると、大正十五年に武蔵野線(今の西武池袋線)が運転を開始し、池袋にも人が集まるようになった。ところが、これらの人を都心に運ぶ交通機関がなく、乗合自動車に頼っていた。一方で武蔵野鉄道は、最初護国寺まで来ている市電とつなごうと、水久保(今の東池袋五丁目)方面の土地を買収し、鉄道線路敷設の許可を受け、護国寺線の設計をしたが実現しなかった。そこで高田町の有志は、武蔵野鉄道護国寺線促進期成同盟を結成して同社に幾度か交渉したが、財政難を理由に断られてしまった。 そのため「自動車を通す道路を造ろう」と、根津山(今の南池袋二丁目)をさけて雑司が谷墓地角まで七・二bの道路をつくり、次に根津山森林の中に横断道路をつくった。これが昭和七年ごろ。その後東京市は、高田町の設計をついで池袋護国寺間に九bの大道路を完成させた。これが現在の都電通り。 豊島区議会は、昭和十二年に市電延長委員会を設け、隣接の小石川区(今の文京区)、板橋区の議会の応援も得て、今日の都電が走るようになった。