昭和46年
昭和46年 2月16日 新しい大塚へ息吹き
昭和46年 2月16日   豊島区の大塚駅前から江東区錦糸町に通じる都電十六系統の廃止が三月十三日と決まり、大塚発展促進会(鶴見秀男会長)等が中心になり、長年の”ご苦労”に感謝する閉鎖式と記念パーティを開く計画を進めている。 戦前は、都内でも有数な繁華街だった大塚も、戦災復興のおくれが災いし、再開発が大きく立ち遅れてしまったが、この都電廃止にともなう都電大塚営業所と車庫(南大塚二丁目三六番、面積約八千平方b)の閉鎖をめぐって地元としてはその跡地を再開発のキーポイントとして、新しい大塚の誕生とその繁栄を約束する礎石にしょうという動きが数年前から続けられており、この都電廃止によって、いよいよその計画が具体化しようとしている。 都としても、ここに都営住宅を含む高層施設をつくり、中に地域住民の日常生活や福祉面に寄与する大がかりな公共施設と大塚商勢圏の拡大をはかる商店街の建設などを考えている。これをバックアップするものとしては、東京拘置所の跡地再開発計画と大塚との関連もあり、これらの素材を生かして大塚駅前区画整理の完了とともに「新しい大塚」が生まれるのも近いかもしれない。
昭和46年 2月23日 大気汚染の意識調査
昭和46年 2月23日   大気汚染を住民はどう感じているかー。池袋伝染病予防委員会(市川陸奥麿会長)と池袋保健所(宇留野所長)は昨年九月、管内の住民千二百四十人を対象にアンケートを行い、その結果をまとめた。回答は七八lの九百六十九通。 ―あなたの住んでいる家の近くの空気はきれいだと思いますか―という問いに「きれい」と答えたのは僅か二l強。「普通」が約半数。「汚い」と答えたのは約四〇l。 地区別に見ると、もっとも汚染がひどいという地区は池袋西口の区役所第三出張所管内で、半数が「汚い」と回答。ついで川越街道以北の第十一出張所管内で四五l。最も少ないのが目白地区の三一lで、交通量の激しいところほど大気汚染を訴え、住宅地ほど少ない。 また、汚染と思われるもので、身体に異状を経験した人は六六lに達し、目の刺激、くしゃみ、せき、たん、悪臭による不快感、頭痛、めまいなどを訴えている。
昭和46年 3月2日 上越新幹線の池袋誘致
昭和46年 3月2日   上越新幹線のターミナルを池袋に誘致しようという運動が盛り上がっている。 昨年十二月三十日に閣議決定されて以来、東北、上越、成田の三新幹線計画は異例のスピードで計画が進められ、国鉄内部のプロジェクトチームも今年四月ごろには具体的な計画を脱稿して八月には一部工事にかかる勢いにある。 起点を池袋に、という運動も時をはずすと豊島区が二十年来持ち続けてきた夢も、うたかたの夢と消えてしまうかもしれない。区も住民も一つの目標に向かって力を結集しようと、意気込みにも熱が入っている。
昭和46年 4月13日 甦る40年前の一万円
昭和46年 4月13日   昭和七年、市郡合併で豊島区が誕生したとき、住民の寄付金の処理をめぐって巣鴨町を中心に大きな騒動が発生した。百日におよぶ猛運動の結果、住民の主張が通って寄付金一万一千円が町から住民に返され、運動費を除いた一万円が巣鴨信用金庫に預けられた。そして四十年、世の中の激しい移り変わりの中で眠り続けてきたこのお金が、利息と巣鴨信用金庫からの寄付を加えて五万円になり、近く地元の区立仰高、巣鴨、清和、駒込小学校、それに駒込中学校の五校に寄付されることになった。 この寄付金一万一千円は、巣鴨町の人たちが「青年修養場」を作る目的で集めてもので、当時の一万一千円といえば今日の四千万円にも相当し、一町だけでこれだけの寄付金を集めたことは、それだけ住民の意欲が盛んだったといえる。 ところが、昭和七年に巣鴨、西巣鴨、高田、長崎町の四町を統合して豊島区の誕生が決定し、この「青年修養場」案が白紙にかえり、住民からの寄付金も町役場の金庫の中に眠ったままになってしまった。 当時の町議会で協議の結果「寄付金を一般財源に入れて使ってしまおう」という意見が出たが、これに怒った田中庄次郎、横川賢治郎さんらが「寄付金を勝手に使うことは反対」と、巣鴨町政革正会を結成し、百日間にも及ぶ大運動を展開した。 この運動は近在町村に大きな波紋を投じ、町議会側も折れて、住民からの寄付金一万一千円を革正会に返し、革正会は運動に使った一千円を差し引いて、一万円を田中さん名儀で巣鴨信用金庫に預けた。 その後、財源に悩む豊島区長から「区に寄付してほしい」といってきたが、代表は拒否して住民の財産を守り、地元の役に立つ日を待っていた。 しかし、世の中は大きく変動し、やがて戦争がはじまり、空襲で罹災、そして終戦。敗戦の混乱、物価の上昇で、一万円の価値も見る見るうちに下落してしまった。通帳を預かった横川さんは、さまざまな利殖を試みたが、増額を図ることができず、今年四月の元利合計が三万五千二百二十七円で、四十年で三倍半にしかならなかった。
昭和46年 4月13日 知事選で、みの部氏圧勝
昭和46年 4月13日   保守、革新がそれぞれ「都政奪還」か「革新都政死守」か、をかけて戦った東京都知事選挙は現職のみのべ亮吉氏が三百六十万票をこす都民の信託を得て当選した。
昭和46年 5月18日 公園がほしい
昭和46年 5月18日   「東京に緑を」と公園づくりや植樹が進められているが、豊島区の現況はどうだろうか。人口一人当たりの公園の広さは東京が一平方bで、世界の都市では最下位。ロンドンが一〇平方b、ニューヨークが一八・五平方b、ワシントンが四五・二平方b、ベルリンが二六平方b、パリが三・六平方b。 昭和五十五年までにパリ並みにする、というのが東京都の長期計画。これに対して豊島区の現状は、公園が十五か所で四万千六百三十四平方b、児童遊園が四十六か所で二万五千五百六十九平方b、仮児童遊園が十四か所で五千百五十七平方bで、合計七万二千三百六十平方b。区民一人に対する公園面積は僅か〇・二五平方bにすぎない。
昭和46年 6月1日 「池袋の柳」が枯死
昭和46年 6月1日  排気ガスにもっとも強いといわれる池袋の柳並木が次々と切り倒されて、無残な姿をさらしている。 昨年の全学連騒動で、アスファルト舗装したうえ、急激に増えた交通量の中で、枝は視界をさえぎるといって切り払われ、さらに車の排気ガスに攻められて日一日とかれ始め、ついにダウン。都の調べでは、今年に入って柳とともに切り倒された池袋周辺の街路樹はすでに七本。また、都の天然記念物で雑司が谷にある樹齢三百年を誇るケヤキと目白の学習院前のイチョウ並木も死滅寸前。 排気ガス・交通公害は植物どころか人体を蝕む様相を示している。
昭和46年 6月15日 豊島区長、二か月の空白
昭和46年 6月15日   豊島区長の椅子が空白になってから二か月あまり。一応、区政は決められたコースを順調に走っているように見えるが、その現実は補正予算一つとっても、代理区長ではせっかくの財源を抱えながら新路線に着手することができず、また十五日から始まる豊島区議会の定例会にしても、恒例の一般質問は「代理者では通り一遍の答弁しかできない」ということから取りやめになるなど、見かけとは裏腹に、区民の期待とはかけ離れた区政がそこにある。 では区長問題はどうなっているのか。なぜ、豊島区の区長の椅子が二か月も空白になっているのか。この底流には、東京二十三区の特別区の自治権拡充運動と、その運動の一つのテーマである「区長公選制の実現」という大きな悲願がある。東京二十三区の区長は、昭和二十七年の地方自治法の改正によって、それまでの公選区長から「議会が区長候補を推薦し、都知事の同意を得てから議会が選任する」という、回りくどい「間接選挙」の姿に変えられた。昭和二十二年と二十六年の二度、豊島区民は自分たちの直接選挙で選んできたが、三十年の改選期以降、豊島の区長は現行法に基づいて議会が選任してきた。 法律上では、二十三区は市と同等の権利が認められていながら、東京との中で二十三区に住んでいる区民は、自分たちの住んでいる区の首長を自分たちで選ぶ権利がなくなってしまった。その弊害としては、選ばれた区長は、自分を選んだ区議会や都知事のほうを向いていれば自分の首は安全ということになり、そこに「区民不在の区政」といわれる悪い面が各区に現れてきた。
昭和46年 6月29日 東京拘置所解体
昭和46年 6月29日   太平洋戦争におけるA級戦犯の処刑をはじめ、最近では過激派学生の収容など、数々の暗い思い出につつまれた「東京拘置所」が時代の流れに呑み込まれ、解体されている。 煉瓦とコンクリートに八十年の日本の歴史が刻まれている。それに打ち込まれる巨大な鉄槌に新しい日本の期待が見える。 この跡地の再開発は、新都市開発センターが、自動車駐車場やバスターミナルなど、都市計画事業の免許を受けて進めるほか、近代的な高層ビルを建設。その中にホテルやデパートが入る予定。この投資は約七百億円といわれる。
昭和46年 7月27日  狭い校庭になく児童
昭和46年 7月27日   小学生一人の校庭保有面積は、全国平均が約一三平方b。これにくらべて東京の平均は六・六平方b。教育の機会均等が叫ばれるなかで、東京の子どもたちは窮屈な学校生活を強いられている。 豊島区の場合も中心部ほど狭い校庭にあえいでいる。例えば、池袋第一小学校は完成校になっても、児童一人当たり二・一平方bにしかならないという。 池袋第一小学校は、現在児童数が約千人。学校の敷地は五、八五八平方bで、そこから校舎の面積三、四七七を引くと残りは二、四〇〇平方b。しかしこれが全部校庭として使えるわけではない。そのうえ、現在鉄筋校舎の第一期工事が進められており、プレハブの仮校舎が建てられるなど、児童の遊び場はほとんどなく、校舎内の通路で遊んでいるという状態。
昭和46年 9月7日 東京拘置所の跡地
昭和46年 9月7日   池袋副都心第二の核として注目を浴びている東京拘置所跡地の再開発についてこのほど、建設を手がける株式会社新都市開発センター(太田信社長、資本金六十四億円)の企画本部が基本構想をまとめた。 同本部の話によると、施設の組み合わせなどに若干流動的な面もあるが、基本構想は動かない。とし、豊島区長と区議会議長の求めに応じて企画本部案を提出した。 施設内容、建築設計案は十月下旬をめどに区に提示する。施設の着工は来年五月を予定。かねてから豊島区が要望していた施設については、「電子科学博物館」「郷土芸術物産館」「近代屋内体育館」として組み入れられることになり、「自然博物館」については、内容が高度に学問的で、規模も広大なスペースを要し、テナントがつかめぬためとりやめ。かわりに電電公社をスポンサーとして電子科学博物館というユニークな構想にかわった。
昭和46年 9月7日 自殺寸前を救われました
昭和46年 9月7日   「今まで人の情けを受けたことのない私たち一家ですが、生活苦から自殺寸前まで追いつめられたとき、豊島区福祉事務所の若い職員の激励と適切な指導を受けて厚生の道を歩むことができました」という手紙が八月に都知事に寄せられた。その後、手紙は区に回され、話が明るみに出た。福祉事務所の職員は清水博さん(27)、礼状を寄せたのはAさん(62)。Aさんは不動産業を営んでいたが、家庭の不和から妻子と別れ、美容院に勤めているK子さん(33)と十年前に同棲。三年生と二年生それに一歳の三人の男の子があり、しかもK子さんは身重で、Aさんも病気。 三月二十六日、事業に失敗して所持金二十万円を持ってアパートを出、池袋の旅館に宿泊。しかし、四か月もたつうちに所持金を使い果たし、いくどか一家心中を考えた。そしてAさんは長野の郷里に金策に出かけてしまった。その間にK子さんは四人目の子どもを生んだが、食事も満足にできない母子は揃って栄養失調になり、悲惨な状態。 この母子を見かねて旅館の主人が豊島福祉事務所に保護を依頼、ケースワーカーの清水さんがその任に当たった。清水さんは、この母子を救済するため台東区の母子寮に収容した。その後Aさんが金策から帰り、びっくり。清水さんはこの無責任なAさんの生活態度を厳しく戒めるとともに、一家六人で生活のできる部屋探しや、子どもの学校のことなど、親身も及ばぬ世話をした。
昭和46年 11月16日 池袋に場外馬券売り場
昭和46年 11月16日   競馬ファンの人口は年々増加している。都内八か所に「場外馬券場」があるが、ファンの増加には追いつけない。ファンの間でも「競馬を見るのはテレビ、馬券を買うのは場外馬券場」という亜流のファンが激増している。こうした中で、以前に場外馬券場があった豊島区に、馬券場を復活させようという動きがでた。このニュースをキャッチした池袋東口の町会で誘致派と反対派が賛否合戦を始めた。反対派にはママさんが加勢し、町の発展か環境を守るのかと、大騒ぎ。 池袋の場外車検場は昭和二十八年、西武百貨店の南隅に設けられていたが、借地のため契約切れで昭和三十四年十二月に閉鎖された。その後、南池袋、西池袋などに移転の話もあったが、そのつど猛烈な反対にあって沙汰止みとなっている。