昭和47年
昭和47年 2月8日 ごみ対策へ区民運動
昭和47年 2月8日  ごみ問題が深刻化する中で、豊島区婦人団体協議会(武部りつ会長)は「もうこれ以上家庭の主婦として黙ってはいられない」と、会の総力をあげて区民運動に乗り出すことになった。 婦団協の計画では、区の広報車に各会長ら二十人が乗って区内を巡回、住民にゴミの減量を訴える。また、区議会に対しても「ゴミ問題解決のため積極的に協力体制をとるよう」請願。二月下旬には、デパートなどと懇談して過剰包装を自粛するよう要望。この間、一般にもノー包装の普及に乗り出すなど、ゴミ対策に積極的な運動を起こすことになっている。 また、東京都が豊島区にもゴミの焼却工場を設置するように要望したことについて、武部会長は「新しいゴミ工場は公害も少なく、運搬の交通問題さえ解決されれば私たちとしては反対できない」と語っている。
昭和47年 2月29日 汚い教室の空気
昭和47年 2月29日  外は自動車の排気ガス、内は密閉されたうえ、暖房用のストーブで冬期中の教室内の空気が予想以上に汚れていることが、学校薬剤師会(森武宗会長)の検査でわかった。調査は一月から二月にかけて区立幼稚園一か所、区立小・中学校四十二校の各二教室、計八十六教室で行われた。 検査の内容は、教室の温度、空気の流れ、一酸化炭素、二酸化炭素(炭酸ガス)、塵あい落下細菌、反射熱など。結果は、全体的に衛生面は向上しているが、炭酸ガスの検査では窓を閉め切った鉄筋教室で、外気が〇・〇三%に対して十五分後の室内は〇・一一%、三十分後には〇・一七%、四十五分後には〇・一八%と六倍にもなっている。これは区が決めた衛生基準「〇・一五%(五倍)以下」を超え、悪化の傾向を示している。 これが休み時間に窓も開けずにいると二時間後には児童は眠くなり、頭痛を起こしたりする。半日近くそのままにしておくと炭酸ガスの量は二十倍にもなり、倒れるものも出るという。 この傾向は幹線道路沿いの“公害学校”に多かったが、最近は住宅街の千川小や池袋第二小、文成小、池袋中などにも見られ、校舎の鉄筋化の進行とともに全校的に教室内の空気の汚れが検出できる、と検査報告をまとめている。
昭和47年 3月28日 老人いこい室に浴室
昭和47年 3月28日  豊島区が、区立の老人いこい室に浴室を併設することは、風呂屋の営業妨害だ、と、区内の公衆浴場が二十一と二十二の両日にストライキの用意をしたが、区議会と区理事者、公衆浴場組合の三者会談の中で一応の了解点に達し、ストは回避された。 この中で、豊島区としては今後、老人いこい室は基本的に浴室を併設するという方針を打ち出して組合側の了解を求め@これによって起こりうる実害があれば一定の保障を考えるA具体的な額、その他については今後の問題として検討する、という結論を得た。
昭和47年 5月30日 母子世帯全国平均上回る
昭和47年 5月30日  豊島区社会福祉協議会(安田安久次郎会長)は、区内の母子世帯の実態を把握するため、四月末から住民台帳による調査を行っている。五月二十六日現在で第一、二、三、四、九、十、十一出張所管内を終わり、その中間集計をまとめた。これによると、調査九万八千三百八世帯中、長子が満二十歳未満の子を抱えている母子世帯は千九百二十六で、平均一・九七%と全国平均の一・八%をやや上回っている。また、出張所別にみると、母子世帯が二割を上回っているのは第一と第三、第九出張所館内で、特に要町、高松、千川地域を館内に持つ第九出張所では、八千八百二十六世帯中、母子世帯は二百、二・二七%と高率を示している。これは、この地域が住宅街でアパートが多いことなどによるものとみている。
昭和47年 6月6日 光化学スモッグ
昭和47年 6月6日  五月三十日午前九時ごろ、西池袋四丁目の区立道和中学(塚本嘉一郎校長、生徒数六百三十八人)の一年四組と五組の教室に光化学スモッグが発生、栗原章子さんら七人が『光化学症』とみられる症状を訴えた。その後も症状を訴える生徒が増え、この日二十人の生徒が頭痛や吐き気、目の痛みなどを訴えた。 従来、光化学スモッグの症状は、校庭などの戸外で起き、教室内で起きたのは初めて。区の公害課と教育委員会は、新種の光化学スモッグではないかと、早期連絡体勢を固め、都の原因究明を待っている。また、六月二日には長崎中学校や椎名町小学校、付近の民家でも同じような症状が発生している。
昭和47年 6月27日 校庭は土か舗装か
昭和47年 6月27日   小学校の校庭は土か舗装か。舗装の場合は何がよいか―。かねてから豊島区教育委員会の諮問により、校長会校庭対策委員会で比較研究を進めていたが、このほどその結果がまとまり教育委員会に答申することになった。 これによると、土も舗装もそれぞれ一長一短があって統一的な見解は出せず「各学校の特色を生かして決めることが望ましい」として、校庭論争に一応の終止符をうった。
昭和47年 9月19日 「秋田雨雀会」を結成
昭和47年 9月19日   雑司が谷三丁目の本納寺に眠る秋田雨雀をしのんで新劇、芸術家を中心に「雨雀会」の結成準備が進められていたが、十月二十二日に本納寺で創立総会が開かれることになった。 秋田雨雀(本名徳三)は早大卒業後、雑司が谷霊園に眠る島村抱月に師事して社会運動に入り、「埋もれた春」や「国境の夜」などを発表。また、区内西池袋に「舞台芸術学院」を創設して多くの演劇人を世に送り出し、昭和三十七年五月に七十九歳でこの世を去った。 「雨雀会」は生前、秋田雨雀に師事してその思想的、文学的影響を受けた宇野重吉や河原崎国太郎、北村谷栄ら、演劇人と区内の芸術家ら五十人によって結成される。会の目的は、秋田雨雀の遺稿を整理して出版すること。命日の五月十三日を「雨雀忌」として、毎年集うことになっている。
昭和47年 9月19日 ここにまだ戦後が
昭和47年 9月19日   「進駐軍の命により:」という至上命令で、長年住みなれた池袋から昭和二十一年に千早町一丁目に引越した人たちがいた。ところが、この土地は都市計画公園の予定地で、最近になって都は公園建設のために明け渡しを請求してきた。 当時の千早一丁目のこの土地は湿地帯で、ごみの捨て場。焼け残りの家財を持ち、生活の場をここに求めた人たちに、近隣の目は冷たかった。その中でいつか二十七年もの歳月が流れている。今さら移転をしろ、明け渡せといわれても、どこへ行けばいいのか。元の土地を返してくれるのか―。この人たちの怒りは大きい。せめて今の土地を払い下げるか、それができないのなら近くに代替地を見つけてくれる気持ちはないのかー、と訴えている。ここにもまだ戦後は残っている。
昭和47年 10月3日 好成績のごみ減運動
昭和47年 10月3日  豊島区の一世帯が一日に出すごみの量は、二十三区平均の一・二四`より多く、一・八`。これは豊島清掃事務所の数字。この原因としては、核家族の比率が高く、昼間人口が多い。しかも二十三区で人口密度は最高という特殊事情にある。そのうえ、池袋副都心など商業地をひかえ、若年層のアパートが四万七千から五万世帯と多いことなど、いくつかの理由があげられる。このような厳しい条件の中で、区と区民と業者が一体となったごみ減運動も、徐々にその成果を上げてきている。 豊島区のごみ減量運動は、再生可能品の回収という形で地域ごとにモデル町会を設定して、約一か月続けてきた。第一回の長崎三丁目町会は、八月二十五日に行われ、その後九月二十五日の千早町会まで十七町会がこの運動を実施した。回収実績は、紙が二一・八d、布が一・五d、ビンが一万千本。 なお、この運動と吸応して婦人団体協議会が「お買い物は風呂敷を持って」と呼びかけている。