『帰路』
 つまづいた拍子に車椅子を押す俺の手が外れた時、美津子が悲鳴
を上げた。
「キィーッ」
 ガラスを引っかいた様な異様な声に通行人達が振り向いた。
「油、切れてるのかな」
 俺は車椅子の車輪を点検しだした。
(車椅子の音か…なーんだ)通行人達が止めた足を動かし始めると、
俺は美津子にウィンクした。
「ご免よ、大丈夫だったかい?」
「ええ、こっちこそ変な声出しちゃって、ごめんなさい」
(やっぱり、都会の生活は無理だな…)マフラーをしっかり首に巻
きつけて、ミトンの手袋を直すと、美津子の膝掛けをもう一度点検
して、帰途についた。
「おひょくぁちぁにぇー」満が戸を開けながらいった。
「ごめんよ、もっと早く帰る筈だったんだけど、途中猫に囲まれち
ゃってね」
「ぢゅあいちょびゅだゃちぁにぃー」
「丁度犬の散歩に来た人がいて、猫が逃げたから助かったよ、でも
犬も結構吠えてたけどね、ご心配掛けました。」そういって俺は頭
を下げた。

「ふぅろょ」そういって満は風呂場へ飛び込んだ。
「それじゃ入るか」美津子を抱き上げると、三人で風呂場に向かっ
た。三人とも風呂が大好きだ。外出しない時は殆ど風呂場に篭もっ
ている。家族同然の我々三人が一緒に風呂に入るのは当たり前だっ
たが、大きな風呂場が少なくなって最近はホテル探しも大変になっ
てきている。
「皆で奄美当たりに行かないか」俺の提案に誰も反対しなかった。
(やっぱり、帰りたいんだな…)

 二ヶ月後我々はやっとこの離れ小島にやってきた。
 三人は昔から仲がよかった。魚頭の満と文字通りの人魚美津子、
半魚人の俺。

 環境破壊の影響が顕著に表れる海では、遺伝子の異常から障害
を持つ仲間が多く産まれる様になった。そして障害者同士の結婚
で一層障害者が生まれ、死に、生まれ死んでいき、仲間を増やす
事も出来なくなってしまった。

「とうとうこの近海では我々だけになってしまったな」水掻きの
付いた指を擦りながら海水を満の頭に吐き掛けた。
「あにゃ、…きゃえりゃうっ」そういってえら呼吸の満が咳き込
んだ。
「ええ、そうしましょ。ね」車椅子から尾びれを垂らした美津子
が背もたれ越しに、私に同意を求めた。
「そうだな」
 三人は、殆ど同時に奄美の海に飛び込むと、沖に向かって泳い
でいった。浜辺には車椅子ともう要らなくなった服が漂っていた。