『まあろさん』
 こんな山の中の温泉宿に来たのは始めてだった。電気もまだ来て
いないらしい。自家発電で冷蔵庫だけは何とかしているらしいが、
飲み物は宿の脇の湧き水で冷やしているし、灯かりもランプだった。

 山菜と川魚だけの早い夕食を終え、一服して落ち着いたら、露天
風呂に行きたくなった。

 東北も田舎の方に来ると混浴も多く、楽しみのひとつでもあった
し、日頃の疲れを取るには自然の中でゆったりするのがいい。

 ここは風呂が自慢の『秘湯』と呼ばれる温泉宿で、仕事のストレ
スから軽いノイローゼぎみだった私に、友人が紹介してくれ、夕方
着いたばかりだった。

 来たときには雲っていた空も、きれいに晴れて雲ひとつなく、空
は一面の星だった。

 始めて見る天の川のなんと奇麗な事か。星が確かに帯になって見
えるし、流れ星も頻繁に落ちてくる。
(降る様な星とは、こんなふうに空が星で埋め尽くされる事なんだ
なーぁ。)
 露天風呂への暗い路を、躓いて転びそうになりながら上をみて歩
いていくと、ランプの明かりが湯船をぼんやりと浮かばせていた。

 どうやら先客がいるらしく、うっすらと影が見える。風呂に着く
と24・5才の女性らしい。しかも一人で入っている。

「あっ、どうも。お邪魔します。」
 照れくさいのを隠しながら近くの篭に着衣を脱いで、風呂につか
った。
「きれいな星ですねー。天の川なんて始めて見ましたよ」
 空を見上げながら声をかけて彼女を見ると、びっくりする程の好
みのタイプだった。
 肉付きが良く、ぽちゃっとしている。が、太っている訳でも無い。
透明な湯の中に揺れる腰は適度に締まっている。あまりの事にいつ
までも見ていた。
 にこっと微笑みかけた目元の愛らしさを見て、慌てて目を逸らす。

 むしろ遅手だった私が、一人旅だという彼女を部屋に誘い、持参
したウィスキーで乾杯し、布団の上で激しく求め合った。が、どう
誘ったのかも覚えていなかった。

 鳥の声で目覚めると、布団の中にも、部屋にも彼女の姿はなく、
昨日飲んだウィスキーのビンと湯飲みが二つ転がっていた。

 名前も聞いていなかった彼女の事を探そうと、宿の人に尋ねたが、
そんな人は泊まっていない。
 近所にも若い女の人はいないという。

「昨日は星がきれいだったから、まあろさんが出たんだよ」
 宿の主人がいった。
「ま・あ・ろ・さん?」

「星の妖精みたいなもんさ」
「妖精がいるんですか?」

 疑った私の背中の爪跡は、消えていた。