1978年(昭和53年)4月に茨城県日立市に転勤した。N損害保険会社、日立支社の営業責任者としての赴任であった。名古屋から東京を素通りして上野から常磐線の「ひたち」と言う特急に乗り換え、2時間ほどで到着した。既に夕暮れが迫っていた。

ここはわが国有数の大手電機メーカーの日立製作所の各工場が立ち並ぶ典型的な企業中心の街であった。駅の周りにはこれといった目立つビルや商店街も見当たらず、駅を降りるとすぐ目に飛び込んできたのは右手のセメント工場の施設だった。過去仕事で何回か来たことがあるが、ひどく殺風景な感じを受けた。

駅に降り立つと平和通という一本の広い通りが延びており、道路を隔てるように大きな桜並木が続いていた。桜はまだ5分咲き程度だったが見事だった。この広い通りは国道6号線まで続いていた。低い山がすぐ近くに迫って見えたが、中腹に目をやるとやはり桜を遠望することができた。
最初の印象は桜が美しく見事だということだった。東京に比べると少しひんやりする感じがした。

これは後で分かったことだが、日立の気候風土は非常に生活しやすいと言うことだ。夏は涼しく冬は暖かいのだ。30キロ程度南に位置する水戸は全く逆だった。そのわけは地形にあるらしかった。つまり夏は目の前の太平洋を渡る北東の風が入り込み涼しく、冬は北風や寒気が阿武隈山系の山々によってさえぎられる自然条件が好環境をつくりあげていたのだ。

ここの桜は色鮮やかで本当に美しい。4年間の在任だったが毎年見事な桜に感嘆した。桜は自生したものではなく、地元企業が中心となって、植樹したものであり、種類も豊富だ。
4月初旬に咲き始めた花がだんだん山のほうに広がり、5月初旬まで楽しむことが出来た。

「平和通」の見事なソメイヨシノ
日立駅から国道6号まで続いている
桜並木で美しい。
職場の仲間と夜桜でカンパーイ!
毎年桜の季節は楽しいことばかり

職住接近
住居は助川町にある比較的新しい「ダイアハイツ」という賃貸用マンションであった。当時ここではまだマンションが珍しく、数少ないと聞いていたが、国道6号線に面した立地にあり会社まで徒歩で10分足らずで極めて便が良い場所だった。
確か階か6階の部屋だったがはっきりした記憶は無い。間取りは2LDKであり、女の子の子供2人もそれぞれ高校、中学生になっていたので手狭だったが当時の住宅事情からすればやむを得ないことだった。
裏手には山が迫り、ヴェランダから意外に近くに太平洋を見通すことができた。
すぐお隣が助川小学校であり、その隣は日立総合病院の大きな構内が続いていた。小学校への通路や病院に植えられていた桜もまた見事だった。

社屋のビルは「日立銀座通り」という繁華街のど真ん中にあり、日立の系列会社の持物だった。いわゆるオフィス街ではなく、商店街の真ん中に位置していたため、年がら年中騒音が絶えず、うるさい環境だった。
社屋の地下にはディスコが入っており、夜は大音響、まん前にはレコード店があり、昼間からよく演歌などを流していた。界隈には飲食店も数多くあったので夜は酔っ払いがウロウロしていた。
最初はなじめなかったが、すぐに慣れてしまった。かえってこんな環境も庶民的で活気があり面白いと思うようになった。

日立銀座通りのイメージ

今まで家から徒歩で職場に通った体験はなく、何か勝手が違った感じだった。職住が近いのは便利といえば便利だが近すぎるのも問題だ。時々同僚や女性社員から「奥さんがお隣のスーパー長崎屋で買い物していましたよ」などといわれることがあったが、最初はなんとなくヘンな気がした。

ヨチヨチ歩きの営業
当時わが社はこの地域では大変有利な営業展開を行っており、大きな数字を挙げていた。この地区でのシェアーはダントツであったが、それには理由があったのだ。

勿論歴代の先輩諸氏のたゆまぬ努力の積み重ねが実を結んだものだが、当時会社が地元の大企業である日立製作所と密接な資本関係にあったため、非常に有利な営業展開が出来たことが大きく寄与していた。
地元には関連企業も50社を超えており、全国有数のプロ代理店もあったため、効率的な保険の販売が出来たのである。
確か人口は20万人程度だったと記憶しているが「日製」に縁の人々が大半を占めており、保険は職域などを対象に効率的な販売が出来たため、同業他社と比較すると大変有利な条件が与えられていた。このような非常によい環境に支社長という営業責任者としての地位を与えられたのだ。
先人が残してくれたすばらしい財産を何としてでも守りぬき、一層伸張させなければならないと固く心に誓った。それまで営業経験は皆無であったため、状況が飲み込めず最初ははっきりした方針を打ち出すことは出来なかった。しばらくは前任者の方針に従い、現状把握に専念した。

しかし、これからの任期に向けていずれ自分のカラーをはっきり出してやってゆこうと心に固く誓った。今までの前任ベテラン営業職制の「物まね」ではダメだし、また真似しようにも出来ないことだと悟った。それまでの社歴では内務や損害調査の経験が長かったので、そこで得た知識やノウハウを生かしてゆくことが重要だと思った。
「保険の営業とは何ぞや…」というきわめて素朴な疑問からスタートしたのである。
損害保険の営業は自分自身でホケンを売り歩くことではなく、一部の契約を除くと原則として代理店が行うものだ。従って数字を伸ばすためには業務能力や販売技術の優れた代理店を指導育成して行くことに尽きる。

もう一つ考えたのは傘下社員の能力アップだった。これらのことはごく当たり前のことであるが、先ず考えたのは社員のマンネリ化の打破である。そのための手っ取り早い方法は各人の積極的な人事異動による適材適所を見出すことと、企画行動力のレベルアップだと感じた。
確かに誓ったり感じたりしたことはご立派??だったのだが、結局は何一つとして実行できなかった。今思うとまことに恥ずかしく忸怩たるものがある。

営業マンのイメージ
一般的に「営業マン」は腰が低く、顧客や代理店に対してイエスマンでニコニコとお愛想がよく、決して敵を作らず、酒、マージャン、ゴルフなどで明け暮れ?数字を挙げることに生きがいを感じているようなイメージがある。そして評価はグラフの上がり下がりで行われる。これはある面では間違ってはいない。
このイメージからすると私は正反対でありお世辞にも「営業マンタイプ」とは云えなかった。しかしこんなことを表面的にマネしてみても付け焼刃に過ぎないと思った。
特に不必要に「米搗きバッタ」のようにぺこぺこ頭を下げたから営業成績が上がるとはどうしても思えなかった。
大切なのは代理店や顧客に対してホケンで出来るサービスを最大限に提供することだと思った。にこやかなのは結構で、顧客に対して明るい態度で接するのは大切だが、さりとていつもニコニコしてペコペコ頭を下げればすむというものではない。

損害保険商品は姿形があるものではなく、極端な言い方をすれば、単なる証券という紙切れ一枚を売る商売だ。そしてお値段は決してお安くない。しかも契約は一年で満期が来て更新されるが一部の保険を除くとそのつど保険料を支払わなければならない。
一体何を売っているのかといえば「信用」だ。万一事故があった場合には最大の効果を上げるような売り方と支払いサービスが非常に重要なのだ。保険は双務有償諾成契約であり、お付き合いで入るという考え方は全く間違っている。

風土や歴史のこと
日立と云うと何を連想するだろうか。何といってもここは企業城下町といったイメージだろう。
そのとおりなのだが、それと共に自然にも恵まれた美しいところだった。しかも暮らしやすい所だった。下手な解説は省略するが、日立市のサイトにはこのことが非常に的確に表現されているので関心がおありの方は以下のサイトを開いていただきたい。なおこのことについて市役所にメールしてみたところ大変ご丁寧なご返事を頂戴した。当時、市の職員の方々も自動車保険の重要なお得意様だったのだ。
日立市へのリンク

日立の観光名物
営業のテリトリーは日立市を中心に南は大甕辺りまで北は北茨城市までだった。100%クルマを使った営業である。知名度が高い観光名所はこれといって無いが自然は豊富で、特に海岸線の景色はすばらしかった。心に残った名物を3点だけ上げておきたい。

大煙突
日立鉱山の公害防止のために作られたものだ
が強風のため途中から折れてしまった。
河原子の海岸
目の前は太平洋が広がり大変自然豊かで美しい。

戦時中は米艦からの艦砲射撃を受けたとのこと

桜並木の下に繰り出された日立風流物
この山車はまことに見事なものだ

日立の人々
仕事の中身のことを具体的に述べてみても意味が無いし、色々な差し障りが生ずる恐れもあるので割愛する。私はこの地に4年間在職したが、家族も含めて地元の方々には大変お世話になり、得がたい体験を数多く重ねることが出来た。商売の保険販売のほうも非常に順調だった。Sという系列の大型のプロ代理店を中心に、あらゆるチャネルの代理店は、それぞれ非常にレベルが高く、在籍した4年間を通してほとんど毎年すべての予算を消化することが出来たのだ。予算は達成すれば実績となり、またその上に予算が上乗せされるので連続して消化するのはかなり厳しいことだ。このときは4年間で数億円の増収を果たしたはずだ。

当時わが国はバブルに向かって経済成長しつつあり、景気も良かった。日立の各工場もフル操業で街には活気があふれていた。クルマが日常生活には無くてはならない土地柄であり一世帯で複数の自動車を保有している家庭も多く、主力商品の自動車保険は良く売れた。
増収また増収の4年間だった。勿論優秀な管下社員に恵まれたことや、先人の残した大きな財産があったのでさらに躍進できたのだ。私はリーダーの立場だったがこれといって自慢できるような仕事ができたわけではない。
すばらしい財産の上に単にあぐらをかいただけだが、非常に幸運に恵まれたというべきだろう。

当時の時代背景
当時世間を騒がせた事件といえばロッキード事件だろう。これは政界はもとより、日本全国を揺るがした戦後最大の汚職事件である。アメリカに端を発した事件は日本にも飛び火し政財界の大物のみならず、ついには田中元首相の逮捕というショッキングな事件にまで発展した。
田中氏は一審二審とも有罪判決を受けたが、その後も議員生活を続け、1985年に病に倒れるまで自民党の総裁選挙などに大きな影響力を行使したためキングメーカーとか闇将軍などと呼ばれるに至った。

勿論4年の間すべてが順風満帆の航海というわけではなく、公私共にいろいろな苦難やトラブルは有ったのは事実だ。しかし、営業にとって数字がドンドン伸びるということは最大の喜びであり、そのことを果たしていたため、多少のことは表面には現れることはなかった。この地域では断然トップのシェアーを確保していたので当然わが社の知名度は高かった。
茨城弁という地方鉛ははじめなんとなくなじめなかったが、しばらくすると完全に溶け込んだ。人々は最初取っ付きにくい感じがしたが、根はまじめで親切な人が多かった。

仕事柄日立の職域の方々との付き合いは多かったが、皆質実剛健で浮ついたところがなく物事に対しては真摯な態度で立ち向かっていた。非常に理知的な方が多く理詰めで物事を運ぶことができた。
あくまで物づくりが中心の街で観光だとか商業の色合いは感じられなかった。
話は飛ぶが当時民謡を習ったことがある。
●民謡大会への出場

◆新社屋の建設に取り組む
忘れられないことを一つだけ上げると在任中に新社屋のビル建設に取り組み、それを果たしたことだろう。すでに述べたように当時支社は借りビルに入居していたがかなり手狭になっていたし、社有車や来客用のクルマを止める場所にも多くの不便さを感じていた。

私は着任後程なくして、大きな挙績にふさわしい社屋の建設に取り組むべきだと感じて上司である営業部長に進言した。しかし、その意見具申はどういうわけか簡単に退けられてしまった。理由は時期尚早であった。このときはかなり食い下がったのですっかり彼の不興を買い、怒鳴りつけられたのを覚えている。おかしな人だと思ったが、このときはあきらめざるを得なかった。

2年目になり上司が変わり、チャンスとばかりにこの話を持ち出した。彼は驚いた様子だったが、直ちに否定はせず、「申請書を提出せよ」とのことだった。直ちに申請を出したが意外に早く本社の総務部長がゴーサインを出してくれ、新ビル建設に向けて下準備を進めるよう指示があったのだ。そのときは本当にうれしかった。

社屋の建設というのは一大事業だ。我が家を新規取得するのとは根本的に異なる。このときは本当に得がたい体験をすることができた。そしてその後、転任先の仙台でやはり支店社屋の建設を体験したがこのときの経験が生きた。

まず土地の選定と確保が非常に重要な課題だった。不動産業者や銀行のルートで情報を集め、最終的に二箇所に絞った。いずれも少しずつ難点があったが日立は平地の面積が少ない土地柄であり、完全に満足できる物件を探すことは困難と判断した。
国道6号線に面した立地であったが最寄の駅はひとつ手前の常陸多賀であった。本社の担当者にも実地に見てもらい、確保したが、駅にも比較的近く環境もまずまずだった。場所は良かったが土地の面積がやや不足していた。だが何事にもタイミングがある。早く手を打たないと時間はドンドン過ぎてしまう。建設業者の選定やビルの規模、施設等の検討を急ぐ必要があったのだ。
ここに絞り本社の不動産管理部門の責任者に見てもらった結果ゴーサインが出た。ヤッター!と思ったが次は建設業者の選定だった。営業との絡みもあり簡単に決めることもできず、すったもんだしたが、最終的には本社指定の系列企業と地元の企業とのジョイントで工事を行うことに決定した。
勿論設計図の段階で色々注文をつけたが 駐車スペースが取れなかったので当時この地区では少なかったリフトを使ったビル内駐車とした。
紆余曲折があったが業者の選定をはじめ細々とした諸事をすべて決めようやく着工にいたった。このときは本当にうれしかった。ビルは6階建で当社は2階から4階までを使い、後はテナントを募集することにした。構想を具体化してから2年近くが経過し、ビルは完成にこぎつけた。しかし私はこの新築ビルで執務することはなかった。

丁度ビルが竣工した1981年4月に仙台支店への転勤が発令されたのだ。チョツピリ心残りだったが真新しい出来立てのビルを横目で見て新任地の仙台に向かったのだった。
この地の4年間にわたる生活は公私共に、長かったサラリーマン生活の中で最も充実していた時期だったと思う。

日立仲間の同窓会
これは日立ゴルフクラブ・インコーススタート地点の写真だ。数年前のものだが、Aさんの呼びかけでかつての職場の仲間が一堂に会し、親睦を深めたときのものだ。

前夜は昔良く通っていた海鮮料理の「網元」で懇親し、昔話に花が咲き楽しいひと時だった。しかし界隈は人通りも少なく、往時のような活気が感じられなかった。不況の影を色濃く落としているように感じた。ゴルフは当時、心臓疾患に悩み、発作の恐れがあり止めていたのでプレーはせずカートに乗りハーフだけ皆に付き合った。

このコースは自宅からクルマで10分位の山岳コースで、在任中頻繁にプレーした懐かしいコースだ。まるで自宅の裏庭でプレーする感覚だった。アップダウンがきつい、かなりトリッキーで面白いコースだが、コースのレイアウトが分からない人は面食らうかもしれない。アウトの一番ティーグラウンドの前方には太平洋が広がってた。

(05/02/28)