◆クラシック音楽会の主催
音楽に興味を持ったのは高校時代に、近所のクラシック好きのU君とよく往き来があったことであるが、大学に入り親友のM君と「芸術研究会」というサークルに入り啓発されたこともある。
このサークルは簡単に云えば[レコード音楽鑑賞会]であった。
部室に顔を出すと手作りの再生装置がありレコード音楽が鳴っていた。女子学生も何人かメンバーだった。最初にこの部室に顔を出したときにいきなり「君は今何を聴きたいか?」と聞かれてドギマギした。
リーダーはOさんという先輩で確か4年生であったと記憶している。
彼の風貌は学者風であり、態度は非常に老成しており言葉遣いも紳士的で丁寧であった。我々新入生に対しても決して先輩面をしたり威張りくさった態度を見せることはなかった。

音楽や芸術に対する造詣は深く尊敬するに値する人物であった。
このサークルは通常「芸研」と呼ばれていたが一度クラシックの演奏会を企画し日比谷公会堂で公演したことがある。この時のことは鮮明に覚えている。

O先輩の指導の下でメンバーが手分けしていろいろなことに携わったが、重要なことは新入生にはやらせてもらえず、当日の切符きりや雑用を仰せつかった記憶がある。
音楽会開催に漕ぎ着けるまでには曲目の選定や指揮者、独奏者、オーケストラメンバーとの交渉、当時唯一のコンサート会場であった日比谷公会堂の手配、チケットの販売、プログラムの作成など自分たち学生だけでで音楽会を企画し実施するのだからこれは大変なことなのだった。特に気難しい演奏家への配慮や送り迎え等にも細心の注意を必要とした。

演目は確か、モーツアルトの歌劇、フィガロの結婚序曲、ベートーベンの運命、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲などであった。指揮は山田一雄氏、独奏者は植野豊子氏(現ヴァイオリニスト兼指揮者の服部譲二氏の母君)であり、当時のクラシック会の一流演奏家であった。オーケストラは大学の管弦楽団であったが、メンバー、技術共に足りずプロの演奏家がかなりの数参加していた。
指揮者の山田氏はいかにも気難しそうな人であり、植野氏はまだ若いお嬢さんタイプの美しいバイオリニストであった。

その時のコンマスは大学の先輩であるHI氏が勤めたが、彼は後年私と同じ会社に入社していたことが後日判明した。当時教師について本格的にヴァイオリンの稽古に励んでおり、かなりの実力者であったようだ。
このことは会社の立教会の席で判ったことであった。因みに彼は会社卒業後もアマチュアのオーケストラや室内楽の合奏で演奏しているとの事である。
演奏会そのものがどんなものだったかは覚えていないが、二階席の最後部で聴いた記憶がある。当時は生の演奏は余り行われず、オーケストラの技量も高いとはいえなかったが、熱演であったことは確かだ。曲目は今ではポピュラーコンサートなどでよく採り上げられる定番中の定番だが成功裏に無事おわり、ほっとしたことを覚えている。
音楽会を企画し実施するなどはなかなか体験できることではなく、端役だったがいい経験をしたと思う。

◆民謡発表大会への出場
民謡の発表会に出て舞台で歌ったことがある‥などというと「オィ ホントかよ」と云われそうだがこれは事実だ。もっとも地方の公会堂の舞台だが‥ 
何故そういう羽目になったかだが舞台に立つにはまず民謡そのものが歌えなければお話にならない。
かつて40代の前半に茨城県の日立市に勤務していたことがあった。
当時はホケンのセールス部署に所属し営業活動に明け暮れていた。
ここはある大手電機メーカーの企業城下町であり、基盤が整備され環境も素晴らしかったので商売そのものは順調であったが、営業部署となるとどうしても夜の部のお付合いや接待がついて回る事になる。
もともと酒の席はキライではなく、代理店や大口の得意先などと酒を酌み交わし情報の交換や意思の疎通を図り有利な営業展開を図ることは極めて重要と思っていた。
酒の席といってもお座敷になるとただサケを飲むだけでは余りにも能がなさすぎる。
当時はまだカラオケが今のように流行しておらず、こんな時にちょっとした芸が出来ると座を保つのにいいなと思っていた。
お客さんには芸達者な人もおり「今度は君の番だ」などと名指しされることもあり、歌謡曲では芸がなさすぎると思い民謡を習うことにした。
この地方でもっとも有名かつ愛されていたのはご存知の「磯節」であるがこれはいくら物まねをしても素人では到底歌いこなせない。磯節の全国大会が行われるほどの名曲で難しい民謡だ。

◆ところで磯節の舞台になっている大洗は水戸に近く、住まいの日立からもクルマで海沿いの245号線を南下すると、1時間足らずで到着した。

「磯で名所は大洗様よ‥松が見えます‥」と唄われ、正に「波の花散る」素晴らしい白砂青松の地だ。当時、正月には必ず車を飛ばして大洗の磯前神社に初詣をし、眼前に広がる太平洋を眺めたものだ。
非常に爽快な気分を満喫できた。

一度酒の席で磯節のまねごとをしたら、地元の人に散々笑われた。お前のは「ヘソ節」にもならないと‥  そこで一念発起して先生について習うことにしたのだ。
民謡が好きだから習うのではなく「接待のとき芸無しでは困る」という例によって真に不純な動機による。だから「お座敷唄」といわれる唄を覚えたかった。
とはいってもどこへ行ったらよいのかも分からずS代理店さんに聞いてみたところ、自分も習っているので一緒に行ってみないかと誘われた。渡りに船とばかりにある晩同道してもらい弟子入りすることになった。
クルマでものの10分程度裏山のほうに上がると大きな芝生庭園があり、クルマが数台止められる駐車場つきの豪邸に着いた。

部屋に案内されると広い板の間に10名ほどの生徒が集まっており真ん中に先生らしき初老の男性が座っていた。見渡すと生徒は殆どオバサンでオトコは我々だけだった。
民謡の先生はO氏といい専門家ではなく何か事業を経営しているようだったが温厚な紳士で県の民謡連盟か何か関係団体の役員でもあった。
私は彼や先輩の生徒に挨拶し「数曲でよいから自分のものにしたい」と申し出た。
早速練習が始まったが最初は先生について皆で合唱を繰り返し行うのだった。渡された稽古の本には♯♪ではなく歌詞の横にゝ↑↓〜のような奇妙な印がつけられていた。この人は器用で三味線、尺八、唄の何でもござれだった。よく観察していると奥さんらしい人が矢張り三味線で伴奏をつけていた。

稽古日には定時に退社するようにし、夕食を済ませ8時ごろから9時半頃まで週一回のペースで通うようになった。いつの間にかレパートリーはお座敷唄を中心に10曲ぐらいに増えていたが肝心の磯節は難しくて手に負えなかった。
半年も経った頃、ある日突然、近く日立市民会館で民謡の発表会があるので参加しろと言われた。
とてもそんな勇気はなく断ったが師匠は許してくれず「どうしても出ろ」と命令を下した。そして彼が選んだ課題曲は山梨の代表的な民謡の「武田節」だった。


1. 江差追分<前唄・本唄・後唄>(佐々木基晴) ☆北海道
2. 道南口説(松木富視雄) ☆北海道
3. 津軽じょんがら節(後藤清子) ☆青森
4. 津軽あいや節(三浦隆子) ☆青森
5. からめ節(早坂光枝) ☆岩手
6. 南部磯節(漆原栄美子) ☆岩手
7. 秋田船方節(小野花子) ☆秋田
8. 本荘追分(藤山進) ☆秋田
9. 最上川舟唄(大塚文雄) ☆山形
10. 新庄節〜字余り〜(早坂光枝) ☆山形
11. さんさ時雨(吉沢浩) ☆宮城 
12. お立ち酒(大塚文雄) ☆宮城
13. 斉太郎節(三橋美智也) ☆宮城 

14. 新相馬節(大塚文雄) ☆福島 
15. 相馬盆唄(三橋美智也) ☆福島 
16. 会津磐梯山(大塚文雄) ☆福島
17. 磯節(早坂光枝) ☆茨城
18. 日光和楽踊り(大塚文雄) ☆栃木 

19. 八木節(上州八木節会〜神沢喜八) ☆群馬
20. 秩父音頭(早坂光枝) ☆埼玉

1. 銚子大漁節(大塚文雄) ☆千葉 
2. 武田節(三橋美智也) ☆山梨
3. 佐渡おけさ(三橋美智也) ☆新潟
4. 米山甚句(小杉真貴子) ☆新潟
5. 伊那節(三橋美智也) ☆長野 
6. 越中おわら節(大塚文雄) ☆富山
7. 山中節(早坂光枝) ☆石川
8. 郡上節〜かわさき〜(坪井三郎,古井戸道雄) ☆岐阜
9. 尾鷲節(下谷二三子) ☆三重 
10. 伊勢音頭(光本佳し子) ☆三重
11. 串本節(藤山進) ☆和歌山 
12. 関の五本松(梅若朝啄) ☆島根
13. 安来節〜どじょう掬い〜(三代目・出雲愛之助) ☆島根
14. 広島木遣り音頭(大塚文雄) ☆広島
15. 阿波踊り(早坂光枝) ☆徳島
16. 黒田節(三橋美智也) ☆福岡
17. 長崎のんのこ節(佐藤松子) ☆長崎
18. おてもやん(須賀道子) ☆熊本
19. 刈干切唄(原田直之) ☆宮崎
20. 鹿児島おはら節(三橋美智也) ☆鹿児島
上記リストは私が保有しているある民謡CDに網羅されている日本のポピュラーな民謡の例である。 この中で民謡教室で習った歌はいくつかあるので示しておいた。(総て唄えるわけではない)

この唄は比較的新しい民謡だが山梨県を代表する戦国時代の武将、武田信玄の「風林火山」で有名になった勇壮な歌謡調民謡である。
民謡を得意にしていた三橋美智也氏の持ち歌でもあった。何故この唄なのかは師匠が選んだので分からなかったが彼は私のキャリアが浅いことや声の質、歌い方などをよく観察しておりもっとも妥当だと判断したものだと思う。
唄そのものは比較的音域が狭く分かり易いメロデーなのでとっつき易いが、中間部に詩吟が入るのが特徴である。
★武田節の歌詞へのリンク

その他の門下生?もそれぞれ課題曲を貰い特訓された。
彼が言うには「民謡は三味線や尺八その他お囃子に合わせるのではなく歌い手が伴奏者をリードするのだ」とやかましくいわれた。
その後大分特訓があり、とうとう発表会当日を迎えだ。場所は市民会館であった。

こは市内の若葉町にあり、約1300席の客席があるホールであった。
市のいろいろな催し物や大会などが行われていたホールで当時は同地区では代表的なものだった。
確か休日の10時ごろから始まり、私たちのグループはの出番は午後一番だった。プログラムに自分の名前が載っていた。
私はこのことを会社の関係者には一切教えなかった。教える勇気は全くなかった。家族にも来るなと厳命した。


しかし、世間は広くない。後日知り合いから「民謡唄ってましたね」と云われ穴があったら入りたい思いだった。

いよいよ出番が回ってきた。何しろキチンとした舞台に出て歌うなどということはそれまで想像もしたこともなく、予定の1時間も前からドキドキして落ち着かなかった。
他の出演者は皆それぞれ上手く、コンプレックスを感じた。

舞台に上がってみると観客が目の前に押し寄せてくるような感じで思わずたじろいだ。司会者の紹介がありパラパラと拍手が聴こえ、後に控えた数人の伴奏で唄い始めた。
とにかくメチャメチャにあがっていたので歌詞を忘れないかが心配だったが苦手な詩吟も何とかこなして終わることが出来た。またパラパラと拍手があった。
もともとあがり易い性格なのだかこの時ほどあがったことはない。声が上ずり、何時もの半分くらいのデキだと思った。
観客はいずれも多少民謡をたしなんでいるか、出場者の知人か家族であり、関係者以外の唄に耳を澄ましている人は居らず、適当に飲食しながら聴いているのだが唄う方は必死である。
舞台に上がるというのは生半可なことではダメということを身をもって感じた。

その後、程なく民謡の師匠の夫人から突然相談に乗って欲しいと頼みがあった。それは簡単に云うと女性民謡グループ内のイザコザの仲裁役のようなことであった。
「そんなこと旦那に相談してよ」と言いかけたが、彼女は「あなたはビジネスマンできっちりした考え方をしているから‥」と云われ、期待している様子だった。
買いかぶりかお世辞か分からないが私はイージーゴーイングを旨とし、いい加減をモットーに生きてきたオトコだ。
この時このようなことでトラブルに巻き込まれたり、あらぬ誤解を受けないとも限らないと思い、嫌気がさして民謡教室通いは止めてしまった。ここは狭い地域社会なのだ。
それでも10ヶ月ほど習ったことになる。こんなことがなければ続けたかった。声を張り上げて唄うのは気持が良いもので、ストレス解消にはもってこいだった。
その後は唄うチャンスもなくもっぱら「カラオケ専科」に転向した。

◆愛聴している津軽三味線

民謡は一時大好きでのめりこんだことがある。今は余り聴くことがないが、民謡や民俗音楽はすべての音楽のルーツだと思う。古今のクラシックの名曲も各国の固有の民俗音楽を引用したり素材にしたりしているものが多いと聞いている。

今でも時々聞いている一枚は全盲の津軽三味線演奏家の故高橋竹山(初代)が渾身の力をこめて弾いている三味線の独奏である。
彼は青森県津軽の出身で幼少の頃、大変な艱難辛苦をなめこの世界の大御所になった演奏家である。
今、津軽三味線や尺八、笙、ひちりきなどの古楽器が現代風に演奏され、それはそれで面白いが、彼が弾いているのは主として津軽地方の民謡である。

このCDは「高橋竹山の魂」という商品名が入っているが中でも素晴らしいと感ずるのは「津軽じょんがら節」(旧)と「よされ節」だ。聴いていると力強さの中になんともいえない哀愁が感じられ津軽地方の冬の厳しさが伝わってくるようだ
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演奏会のプロモーター
日比谷公会堂は1929年昭和4年に竣工した建物で約2000名を収容できる多目的ホールである。公園の南側に建てられ長い間音楽のホールとしても利用されてきた。当時のクラシック音楽は外来演奏家のものを含めて総てここで演奏されていた。音響的には難があるといわれていたが、独特の雰囲気をもち各地で音響が良いホールが建てられるまでは日本の代表的なホールであった。
オーケストラの写真は当日、記念にゲネプロのときに撮影したものと思われる。


日比谷公会堂