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担任教諭の回想
立教高等学校は1946年(昭和21年)、新制度の下に立教中学校を引き継ぐ形で新たに開校されたものである。

1949年(昭和24年)中学から無試験でそのままエスカレーター式に進学した。この頃になると、ようやく世の中も少し落ち着きを見せ、飢餓状態も解消されつつあった。

校舎も同じ敷地内にあり試験も無く、中学の延長線上であり、余り新鮮味は感じなかった。教諭も中学と兼任の人が何人か居た。校長は佐々木嘉市氏といい、かつては旧制高校の校長を務めた方で、非常な人格者であり優れた教育者であった。私は2組に配属になった。

担任は藤田富雄教諭であった。東京大学を出たばかりの気鋭の教師であった。専攻は哲学であり得意の語学はドイツ語であったが、教科の編成等から英語を受け持つことになったらしい。

年齢はせいぜい10歳程度しか開きが無く、兄貴のような存在であった。若さとバイタリティ、教育にかける情熱を強く感じた。私の人生に、少なからず影響を与えた人物の一人である。

因みに氏は後年立教大学の教授になり、定年後は神奈川大学の教授に転出され、10年間務めあげ、近年ご高齢のため大分弱っているようであるがまだご健在と伺っている。昨年行われた同期会にも出席されている。
当時は新制高校の新任教師としては経験こそ不足していたが、全力で対応しようとする気持はひしひしと伝わってきた。

東大哲学科出身というと何か小難しい感じの神経質な教師を連想するが、実際は正反対でさっぱりした気性の明朗闊達な人柄であった。非常に魅力的な教諭の人柄に惹かれた生徒は多かった筈である。

英語は専攻科目ではなかったのでややぎごちなく、発音は、日本語式或いはローマ字読みの発音?に近かったようだ。ま、専攻は哲学であり得意はドイツ語であったからやむをえない点もあったのだろう。また当時日本人で正しい英語のスピーチが出来る人は殆ど居なかったのも事実だ。

哲学専攻でありヘーゲル、カント、ニーチェ等の話を時には聞かされたような記憶があるが、当時は全く関心が無く、話を聞いてもさっぱり分からない中身であった。私の記憶だと確か我々が二年生のときに結婚された。

夫人は才媛の誉れ高く礼儀正しく、一目で良家で育てられたことが判る美しく上品な女性であった。
家庭を持たれてから、学期休みに入ると友人等とご自宅に遊びに行くこともあったが、いつもいやな顔一つせずご夫婦でもてなしてくれた。

旧制高等学校の経験者であり、その時代に人間としての生きた教育体験をされたのではないか。とにかく奥の深い人物であり、かなりのワルがいた生徒を上手くコントロールしていた。叱るときも決して感情的にならず、反省の気持が起きるような、理屈に合った叱り方が出来た。最近の出来損ないのダメ教師とは全く異なる「真の先生」だった。多感なこの時期に藤田教諭に教えを受けたことは真に幸運だったとつくづく感じる昨今である。

私は学生生活を通して決して勤勉とはいえず、小・中を通してカバンの中にはいつもキレイな教科書が入ったままで、学校以外では教科書の類を紐解くことはしなかった。
授業中に集中し総てを吸収すればそれで良く、予習復習はムダだと思っていた。要は勉強そのものが大きらいであった。中学時代は特に「暗記もの」が苦手だった。歴史の年譜などは覚えようともしなかった。今でも暗記スタイルは大嫌いだ。

興味を持った学科は「物理だけだった。まじめな友達がカードに整理した単語などを取り出して懸命に暗記しているさまを、せせら笑っていた。
だから成績のほうは推して知るべしで、低空飛行であったが不思議に落第点は取らなかった。
学期末のテストなどはチョロイものだった。教師の言動やクセをよく観察していれば出題のヤマはある程度当たるものであり、もっぱらヤマを張るカンを養っていた。的中率は高かった。

このようなやり方はその後も続いたが、高校時代の3年間だけは以前に比べれば比較的まじめに学業に取り組んだと思っている。少なくとも努力しているフリだけはしていた。

藤田教諭の感化による点が多かったと思われるが、英語・ドイツ語などはかなり真剣になっていたと思う。関連記事へのリンク
しかし、今にして思うと、この時期もっとマジメに基礎学力をつけておくのだったなと思うが、「後悔先に立たず」とはこのことだ。後年感じたのは国語の能力不足だった。国語は総ての知識習得のベースになるものだと思うが、このトシになっても漢字を知らず、解説やマニュアル類を読んでも書いている中味が理解できないことが多々ある。読解力が劣る事を痛感させられることが多い。
ま、誰が読んでもわからないヒドイ「マニュアル」も数多くあることはあるが‥


◆キリストの教え
この学校の大きな特徴はキリスト教に基づく全人教育にあった。
従ってキリスト教の何たるかを2名の牧師が教科として教える時間が組まれていた。2名の牧師はチャプレンと呼ばれていた。

大学にあるレンガ造りのチャペルでの礼拝や賛美歌の斉唱なども毎週行われていた。小型ではあったが本物のパイプオルガンが専任の女性奏者によって演奏され、荘重な響きの元でそれに合わせて歌う賛美歌は心地がよく、窓に映るステンドグラスの光と共に、落ち着いた気持になれたのを思い出す。

バイブルが教科書であり、そこに書かれている中身が牧師によって説教として語られたのであるが、一種の修身または教養を身につけるための授業であった。
バイブルには非常によい教えが数多くあった筈だが、高校卒業後目を通すことはなくなり、今は「○○するなかれ」という言葉を覚えているだけだ。

牧師がバイブル片手に「もし右の頬を殴られたら左の頬も出せ‥」というような教えを熱心に説いていたが、平和主義に徹しなさいということは判っていても、こんな事はありえないなどと反発したのは覚えている。もともと性格的には「目には目を、歯には歯を」というのが身上だったからである。

クリスマスが近づくと、校内がにわかにあわただしくなり、その前後にはいろいろな行事や礼拝が行われた。
クリスマスとはこの学校に入るまでは、ケーキを食べ「諸人こぞりて」や「主は来ませり」を歌い、もみの木に飾り付けをしたり、サンタクロースが長い靴下の中にプレゼントをいれて枕元に置いてくれる楽しい日、程度にしか考えていなかったが、実際にはキリストの降誕の日であり、宗教的には極めて厳粛且つ重要な日であることもやっとわかった次第である。

この時代に牧師から説得され深く考えもせずに洗礼を受け、クリスチャンになった生徒はかなりいたが、私は洗礼を受けなかった。何故か?とチャプレンにしつっこく聞かれたこともあったが、簡単に「わかりました」と言って洗礼を受ける気にはならなかった。
宗教や信仰心を否定する気は毛頭無かったが、このようなものはもっと人間の本質にかかわる根深いところに原点があり、人生経験浅い者が漫然と特定の宗教を信ずるという行為はどうしても得心がゆかなかった。宗教はキリスト教だけではなく、また、立教の「聖公会」だけではない。

選択肢はさまざまであるという思いもあった。要は入信するには早すぎると判断したためである。
その判断は正しかった。考え方は今でも変わっていない。

◆一貫教育の得失
高校3年間は小中時代に比較すると学業に打ち込み、成績も少しだけ向上したが、この学校は当時余程の問題児以外は総て卒業後ストレートで大学に入ることが保障されていたため、総てにイージーな点があり、全体的に見れば学力レベルは決して高いとは云えなかった。
しかし、私のような怠け者でイージーゴーイングを旨としている人間にとっては好都合だった。
試験地獄を体験することなくお手軽に大学へ進学できるからである。その頃になると私大でも学部によっては結構な競争率になっていた。

このことの功罪は簡単には評価を下すことが出来ないが、よい面を挙げればのびのびと学校生活を送ることが出来、型にはまらないユニークなキャラクターをつくりあげることが出来たことだろう。
現にクラス会などで旧友に顔をあわせる機会があるが、いまだになかなか個性的な人が多く、各分野での成功者が多いようだ。

この学校には優秀な生徒と出来の悪い生徒が混在していたが「悪貨は良貨を駆逐する」の例えどおりであったから、それを直感していた少数の非常によく出来る生徒は普通の学友とは交わろうとせず己の道を進んでいた。彼等の多くは推薦で入れる立教大学や他の私大には進まず、国立大学の道を選択した。

学業もトップで人間的にも素晴らしい人物が居た。A君である。彼は兄も立教であったが兄弟してよく出来た。彼は敬虔なクリスチャンであり立教大学に進んだ。大学でも優秀な成績で卒業し、当時一流企業であった繊維会社に入社したが、2年ほど前に癌で亡くなったと聞いている。
また大変ユニークだったのはM君である。彼は1組に所属し、卒業後は矢張り立大に進んだが、その後東京大学に入り直し、経済学部の教授にまで上り詰めている。高校時代はレスリング部に所属して頑張っていたが、当時は学業では目立つ方ではなかった。但し、彼の父親は後年立大の総長になった学者のM・M氏であり、やはり血は争えないというべきか。

私は自分の実力から見て最初から立教大学しか頭に無かったので、適当に努力するフリをしたに過ぎない。学生時代をノホホンと過ごし、入試の地獄を味わったことはなくその面では幸せだったが、真の意味での学力は身についていなかった。
このことは後年大学に進学して他校から来た学生と交流してみて、いやというほど思い知らされた。彼等は皆よく勉強しており知識が豊富だった。話の内容が全く違うのでショックを受けたのを鮮明に思い出す。今までゴマカシの連続でその場限りで過ごしてきたやり方では通用しなかった。
大学では遊びに忙しく成績は低迷し、すれすれで卒業した。
もっとも、常識は一応身につけることが出来たからそのことにより社会人になって学力不足を感じたり、ハンディキャップを負ったりしたことは特になかったとは思うのだが‥

◆バレーボールに取り組む
この時代は青春時代の真っ只中であり、何か打ち込むものが必要だった。
私はこれをスポーツに求めた。体は当時としてはクラスでも大きいほうであり、軟式野球はそこそこ出来たので硬式野球部から再三にわたり勧誘されたが、余り気が進まなかった。暴力的な雰囲気が好きになれなかった。

当時バレーボール部が創設され、間もなかったのでバレー部に入部した。メンバーが不足しており、すぐにレギュラーになれると思ったからだ。
バレーボールは今でこそ6人制であるが当時は9人制であった。コートとネットボールがあればゲームが出来たので安直であり比較的人気があった。新制高校になって二年目であり、部員は少なく当初は一年先輩の部員と新たに入ってきた我々だけがメンバーであった。
実力のほどは推して知るべしである。それでもかなり一生懸命に練習に励み2年生の時には対抗試合などもこなすようになってきた。

夏には1週間程度の合宿があり、毎年富士山ろくの須走にある旅館に泊まり一日中汗だくになり、ボールと取り組んだ記憶がある。

Z.T君という同級生がコーチ格であり、私はFRのポジションであった。今の6人制のバレーボールとは異なり、各ポジションは固定していた。
フォワードは簡単に言えばネットプレーをこなし、センターのスパイクによるアタックを容易にするためのトスを上げたり相手のアタックをブロックするが主たる役割であった。6人制で云うセッターであるが、当時はトサーと呼ばれていた。また、スパイクのことをキルと云っていた。
相手の攻撃をネット際で止めるためにブロックを確実にしなければならなかった。
ブロックの技術は地味だが極めて重要であり、これがポイントに繋がるのである。

私は身長が173センチで上背がやや足りなかったのでポイントゲッターには程遠く、たまに仕掛ける左手のタッチは打点が低く、相手にブロックされることが多かった。ジャンプ力をつけるのに腐心した。ジャンプを繰り返し練習し、立っているときは出来るだけつま先だけで立つように心がけていた。「指たて伏せ」とか「うさぎ跳び」というのもこなしていた。
練習方法も試行錯誤の繰り返しであり、運動神経のほうはセンスが良い部類とはいえないので上達は遅々としていた。

このチームは個々に見た場合はそれなりの力をつけたが指導者に恵まれず、通常は同級生のT君がコーチし時々顔を見せるN先輩やK部長の指導で作戦を立てる以外には試合のフォーメーション、作戦などは殆ど自分たちで工夫していた。これでは限界がある。
バレーボールのゲームでは作戦は極めて重要であったが、それが出来ていなかったので実戦になるとフルセットまで頑張っても最後によく競り負けた。実力は明らかに下と思われる相手にも負けてしまうのだった。作戦タイムを取るときに監督が冷静に相手チームの弱点や作戦を見抜き、具体的な対策を指示をすることが必要なのだが望むべくもなかった。

都立のT高校とはよく練習試合を行ったが相手チームの監督と部長のK教諭が兄弟の間柄だったからである。


バレーボール卒業メンバー

夏季合宿

全員

私はセッターだったのでゲームを組み立てる役割を担う一人だったのだが、頭で組み立てが出来ても実技が伴わず、失敗することが多かった。
ゲームでは相手の裏をかくことが大切なので、相手ブロック陣の隊形やプレーヤーの能力をよく観察して、ボールを振るのだがアタッカーとのコンビが上手くとれないことが多かった。
トスもボールを離すのが速くコントロールが悪かった。ホールデングすれすれのやわらかいトスを上げる技術に欠けていた。

私はネットに平行に速く低いトスを上げクイックで攻めるのが好きであったがこれはタイミングが難しかった。一人にフェイントをかけさせ相手のストップを飛ばしておいて他のアタッカーにスパイクを打たせるのだがこれが決まったときは本当に気持がよかった。残念ながら確率は高くなかった。
3年生になると中学から優秀な選手が入部するようになり、センスのよい1年下のS君がFCでゲームを組み立てるようになった。

その頃中学はT教諭という優れた指導者に恵まれ短期間の間にメキメキと力をつけ国民体育大会で活躍するまでに成長していた。東京でも常時10位以内に入る実力を身につけ非常に洗練されたバレーボールを行っていた。もし練習試合をしたら負けるのではないかと恐れていた。
チームメークをする場合の指導者は実に重要であり、それが不在のチームの悲哀を感じた。

この時代にウマが合いよく付き合っていのはYT君である。彼はバックを守っていたが温厚な人柄で頭の回転が速くバランス感覚に優れていた。大学卒業後、地方の高校の教諭になり、今でも元気だが、賀状のやり取りだけで往き来はない。

バレーボールで体を鍛えることが出来たこと、チームワークがよくないとゲームには勝てないこと、また客観的な目で作戦を立てるゲームメーカーやリーダーが居ないと力を結集できないことなど3年間の部活動で得た体験は後年社会人になってから非常に役に立ったと思っている。

ただ、今やバレーボールは完全なマイナースポーツと化し、ゲームそのものをする機会はおろか見る気もしないが、究極のバレーボールは「ビーチバレー」だと思う。あれはハードだ。炎天下砂浜で6人はおろか2人で対戦するのだ。砂浜でジャンプするのは至難だし、自然も相手の極めて過酷な条件でゲームを争う。これが見ていると一番面白い。

◆アルバイトの体験
隣家にKさんというお宅があり、このご主人が損害保険業界のT海上を退職してから代理店協会の会長の要職にあったがある時、母を通して「アルバイトで働いてみないか」とお声がかかった。協会を通して適当な人を探している様子だった。

このアルバイトは高校3年頃から夏や冬の休みの期間を中心に3年間ほど続けたがお陰で小遣いには事欠かなかった。

仕事は当時御茶ノ水にあった「日本損害保険協会の料率算定会統計課」で作業の手伝いをすることであった。

損害保険ではレートを算定し適正な保険料を決めることは極めて重要なことであったが、当時ようやくアメリカのIBMから大型の電子計算機を導入し計算するようになっていた。しかし機械といっても今のコンピューターとは似ても似つかない大掛かりで原始的な代物だった。

当時は全社の火災保険のデータを取り整備していたものと思われる。

仕組みは、各社の契約やロスの内容を一件ごとにパンチャーがコード表を基にしてカードに打ち込み、それを集積し一定の仕分けを行い統計機で読み取り最終的に適正料率をはじき出すのであるが、仕事の量が増えて、深夜まで機械を動かす必要に迫られていたようだ。毎日午後4時ごろから9時ごろまで働くことが多かった。

私の担当はキーパンチされたカードの分類作業であったがこれは統計作業の下準備であり、スチールケースに入っているカードの山をソーターというマシンを使って、統計の種類に従って何回かソートし目的の統計資料の作成が出来るよう下準備をした。
ソートした結果は即統計の結果に反映され、マチガイの修正は統計機を2度回すことになり大変なロスになるので細心の注意を必要とした。
作業そのものは単純だが、目的の統計を取るためにどんな順序でソートしてゆくのか要領をつかむのに多少時間を要したが、慣れるに従い作業が速くなり、作業の結果も精度が上がった。統計の目的を聞けば、くわしい手順の説明を受けなくても即応できるようになっていた。
統計課長のS氏からほめられ、「君の友人で信用できる人を探して欲しい」と頼まれ、近所の高校のバレー部で一緒だったT君を推薦し一緒に働くようになった。彼は理解が早く期待に沿うことが出来た。

夏休み等を中心に錯綜時には必ずお声がかかったがシステムの変更や先方の都合でいつの間にか取りやめになった。ここでの体験は後年非常に役に立った。就職時に損害保険会社を選んだ一つの大きなきっかけになったからである。

今では、どんな企業でも事務処理はインターネットのオンラインリアルタイムで処理しており、大型コンピューターによるカードパンチやバッジシステムは完全に過去のものになっているが、当時は最先端を行くシステムでありIBMのシステムのすごさに驚嘆したものである。
わが国ではまだソロバン、手動のタイガー計算機や計算尺が主力の時代だった。



私は最前列左端


1952年(昭和27年)3月に立教高校第4回期生として卒業の日を迎えた。当日の記憶は何も残っていない。

当時既にエスカレーター式推薦入学で大学経済学部に入学が決まっていた。実は物理だけはいつも出来がよく、興味を持っていたので理学部に入りたいと思っていた時期もあったが、当時の大学の理学部のレベルに疑問を持ち、将来の就職や生活を考え一番無難な学部を選択したのだった。

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