○○の日記
(俗に言う第二の人生)
1989年、55才定年を迎え、ある子会社に転籍した。
社名は通称「NAC」という従業員250名を擁する最大規模の子会社だった。仕事は親会社である損保会社の自動車事故処理の下請け会社だった。

私はここで63歳まで過した。それなりに忙しく充実した日々だった。ここでも実にいろいろなことがあったが、特徴的なことだけを駆け足で記しておくにとどめたい。



仕事や役割
役職は役員待遇の「研修部長」という、いかめしい肩書きだった。この会社に転籍できたことについては、勿論、親会社の人事担当役員のご配慮だと思うが、私のそれまでの社歴も、影響しただろう。私は営業の経験もあるが、損害調査業務で過した年数が長く、その面でのSKILLを買われたのだと思う。

会社の職員は別名「アジャスター」と呼ばれていた。これは業界用語だった。社員は全員、自動車会社デーラー又は整備工場からの途中入社であり、いわゆる新卒者は皆無だった。

主たる仕事は自動車事故にあった車両の損害見積と事故状況の調査などであり、その中身を親会社にレポートとして提出することだった。これがこの会社の商品だったのだ。
彼等を本社として研修指導する部署の責任者だった。それまではもっぱら各種研修を受ける立場だったが子会社では社員を教育、指導する立場となってしまった。
湯河原の研修センター
当時親会社が神奈川県の湯河原に立派な施設を建設した。ホテルまがいの素晴らしい施設だった。ここで毎年の研修スケジュールに従って社員教育を行っていた。子会社としてこの施設を借りて教育をしていた。

新入社員の教育に始まり、レベルアップや資格取得のための集合研修の場だったのだ。私は総責任者であり、講師を受け持つことは限られていたが、立場上研修生と共に宿泊することが殆どだった。
一度出かけると1週間家を空けることになる。相変わらず出張や外泊が多い日々だった。

マイカーで自宅とセンターとの間を数え切れないほど往復した。自宅から首都高速経由で東名高速を駆け抜け、順調だと片道2時間程度の道のりだった。


湯河原駅からクルマで
10ぷ足らずの丘の上に
建設されていた。

人を教育する事は至難の業
元々そんなガラでもなく能力も無かった。本来は見積技法を教えるのが目的なので、実地の研修は上級自動車整備士と業界資格を持った課長クラスの講師が行うのだが、各種の規則、規定、保険商品、約款、交通法規、などは私が担当した。
いざ人を教える段になると、改めて持てる知識がいい加減だったのが判り愕然とした。

お前は一体何年ホケンでメシを食って来たんだ!
と いうわけだ。

確かに前職を辞める前には長い間、実務家としてよりも、マネージャーとして過していたのでやむをえない一面はあるにしてもヒドすぎた。
教えられるほうは、いい迷惑だったろう。こんな事を今更クドクド書いてみても始まらない。

ロビーはホテル並み

研修講師
そして他人を教える事は自分にとっては大変な勉強になる…などというのもヤットわかった次第だ。
全くノー天気なヤローだ。しかし、この体験を通してろいろな新しい知識を得たのは事実であり、得がたいものだった。
センターに滞在中はヒマをもてあますことも多かった。しかし、全国各地から集まってくる社員の管理責任一切を負っていたため、何かコトがあれば責任は重大だ。任期中は幸いにして「大事件」は起きなかったが忘れられない出来事がある。

あるとき新規採用した地方出身の若い研修生が、確か2日目になって私に相談があるという。
彼が言うには「自分は前の会社に籍がありながら当社を受験し合格、ずるずるとこの導入研修に参加してしまった…」と 私は思わず彼の顔をまじまじと眺めた。唖然として言葉を失った。怒るよりあきれてしまったのだ。

採用責任者ではなかったが、事は重大だ。私は直ちに本社と連絡を取り彼を出身地に帰した。
この社員は受講態度も良く成績も優秀だったが基本的なことが全く欠けていたのだ。彼は大手自動車デーラーの社員だったが、後で聞いたところでは結局もとの鞘におさまったという。とんだハプニングだった。

研修最終日の金曜日、昼食後、研修生を無事送り出すとホッとしたものだ。
ここの食事は美味かったが、ボリューム満点で私のような年配者向けではなかった。時々こっそりクルマで抜け出して街の蕎麦屋に避難したりした。なお、夕食時に食堂で飲酒する事は許されていた。

これは当時センターのマネージャーに聞いた話だが、親会社の新人教育はこの施設に学卒の男女が1ヶ月近くも拘束され研修を受けるので大変だという。ここには立派な室内体育施設も整っていたが、若い者はエネルギーをもてあまし事件も起きるという。夜中に窓から抜け出す者、若い男女間のイロイロ厄介な問題などだ。
さもありなん…   私のような当時60近いジイサンでもニキビが出そうになるのだから… この施設はすべてがバストイレ付の個室となっており、研修生のプライバシーは完全に守られていた。
★研修センターの付近は自然の豊富な美しい場所だった。リゾートマンションや老人ホームなどが数多くあり、時々抜け出して散歩した。坂道が多くみかん畑も見られた。  景勝地、真鶴岬も近くクルマで20分程度の距離だった。

労働組合
 ここでも又労組とのいざこざが絶えなかった。親会社の実態はさんざん述べてきたとおりだが、子会社の労組もそれに輪をかけて問題が多かった。彼らの主たる要求は待遇改善と身分保障に関するものだった。確かに設立後日が浅い会社組織であったため、いろいろな面で不十分な点があった事は事実だろう。
しかしその常識外れの言動や対応振りにはあきれ果てた。とにかく非常にいびつな労使関係だった。
具体的なことを今更述べ立てても始まらないので、すべて忘れたほうが身のためだと思う。

Computer Systemの導入
私はこの会社に1889年(平成元年)から1995年(平成7年)6月まで在籍した。これも会社規定に従った一種の定年退職であり、退職時には常務取締役という肩書きだった。
(注)この会社では役員待遇で入社すると、通常誰でも3年後には常務に昇進することが不文律となっていた。今から思うとのんきなものだが、一方それで特に待遇がよくなることも無かった。

既に研修部長は外れ、首都圏のブロックを統括する仕事についていた。
社員数も400名の規模になり、部機構も整備され、会社らしい会社に発展していた。
この頃ビジネス社会では、事務処理の効率化、合理化の機運が高まり、今までのペーパーを主体とした事務システムに抜本的な改革を図ろうとする気運が高まりつつあった。

当時、会社にはH社製の「2050と」いうComputerが一台配置されていたが、netでつながれているわけでもなく、せいぜい表計算やワープロ代わりに利用していただけだった。このマシンの性能は当時としては非常に高かった。当時ワープロ専用機はすでに使っていたのでこのComputerは比較的早くなじむことが出来た。

親会社の方も本格的なSystemの構築は行われていなかったが、この頃から各企業とも本格的なComputerSystemの導入を迫られていた。 OSが「Windows3.1」から「95」に変わる頃のことだ。
社内にKさんという若手の課長が居り、彼はこの方面の知識が豊富だった。彼は早急にComputerを会社業務推進の中心にすえるべきだと強く主張していた。

私は全面的に賛同していたので、最後のプロジェクトとして、何とか形だけでもつけて会社を辞めたかった。何か形のあるものを残したかった。
当時はこの面の必要性についてキチンとした知識を持っている上層部は殆ど居なかったので、理解してもらうのには非常に苦心したものだ。
しかし、当時のK社長やY専務などトップの方々は最終的には私の考え方をキチンと受け止めてくれ、親会社からの予算獲得のために奔走してくれた。そして、退社するときにはそれなりの形をつけて後任者に引き継ぐことが出来た。
自画自賛になるが、この事は、一つの「成果」として上げてもよいのではないかと思っている。また、物件費の縮減にも力を注ぎ、特に多額に上っていた事故の証拠写真代や調査交通費の圧縮削減に努力した。手法はかなり強引であったから組合員から相当な反発を買った。しかし,その効果は数字ではっきり示された。
 
海外視察旅行
定年を数ヵ月後に控えたあるとき、K社長から慰労もかねた研修旅行に参加しないかとのお話があった。日刊自動車新聞社主催の海外視察旅行だった。勿論喜んで参加させていただくことにした。
その時の詳細は下記にリンクしてある。
視察旅行の団長サン

第二の人生の終焉
この子会社をやめる時がきた。
1995年6月末、規定により円満退職した。6年余りを過したことにらなる。
退職の少し前、その時のK社長から「引き続いて嘱託として働いてみないか」という大変ありがたい話があった。私は即答を避けた。一定の区切りをつけたいと考えていたからだ。仕事の中身は早く軌道に乗せなければならないコンピューターシステムの構築のお手伝いだった。

しかし、ずるずる続けることには抵抗感も強く、「とにかく一度辞めてからよく考えたい」と返事をし、同社長も快く了解してくれた。(06/08/30)