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サラリーマンのスタート

新入社員
1956年(昭和31年)4月に晴れて「N火災海上保険株式会社」に入社した。
いよいよ社会人のスタートである。

当時N火災本社は日比谷公園近くの港区芝田村町にあった。
ここはN館とも呼ばれ旧Nコンツェルンの入っていた由緒ある建物であったが、今は取り壊されて日本三菱石油のビルとなっている。
一時外務省が間借りしていたたこともある。

当社の開業は古く、明治44年5月に傷害保険専門の保険会社として発足した。その後、大正11年に鮎川義介が社長に就任し、積極的な経営に政策転換を行い下関の貝島財閥の各企業の保険の引き受けてとして基礎を築き、火災保険を中心とした引き受け体制を確立していった。その後、社名もC火災傷害に変わり、海外再保険取引も拡大させたが、関東大震災やその後の経済不況で厳しい経営を余儀なくされた。

昭和12年に社名をN火災海上に改名しNコンツェルン傘下の損害保険会社として新たなスタートを切り、Nグループの飛躍的な拡大と共に当社の業績は急進した。海外へも積極的に進出し、合従連衡を繰り返したがその後の太平洋戦争の混乱期の中で終戦を迎えることになる。

終戦後はGHQの民主化政策の下でコンツェルンは解体されてしまったが、企業保険分野に強く海上保険のシェアーも高かった。取引先には優良な企業が数多くあった。すなわち、N製作所を中心とする各企業、およびその関連企業等であった。
その意味ではやや地味ではあったが、バックに恵まれ経営基盤はしっかりしていた。

ただ、戦中戦後の混乱期が長く続き、損害保険事業そのものは生保や銀行に比べると脆弱な感は否定できなかった。当時の保険商品の中心は火災保険と海上保険であり、自動車保険は新種として取り扱われているに過ぎなかった。但し、交通事故の増加が社会問題になり、この年の2月に 「自動車損害賠償保証法」(自賠責法)が施行された。自賠責保険の強制加入が義務付けられ、後の自動車保険伸張の基礎が出来上がった。

当時、会社で幅を利かせていたのは海上部門であり、優秀な者は海上部門に配属されると云われていた。また、一般社会の保険に対する知識や知名度は低く、生命保険と損害保険との区別も知らない人が多かった。
生保の方が普及度ははるかに進んでいたが、極端なインフレで実質的な補償額は目減りし、満期が来ても保険金は微々たるものであったので国民の信用を失っていた。

1955年前後のの社会経済の動き
特徴的な出来事は安保闘争の激化だろう。
1952年(昭和27年)サンフランシスコ講和条約によって日本は念願の主権を回復した。これで、アメリカの日本占領は終わった事になる。と同時に日米安全保障条約が結ばれ、このため日本各地に米軍基地が置かれ周辺住民の生活を圧迫、55年の砂川闘争(東京)に代表されるような多くの基地反対運動がまきおこった。
政治的にはそれまで離合集散を繰り返していた自民党が一つになり、社会党も再統一され、議席を増やしている。そしてこの保守と革新両勢力による政治的安定、即ち「55年体制」が出来上がり、これ以降自民党は1993年の分裂まで長期にわたり安定した政権を築くことになる。

入社式
当時の社長はT.S氏であった。入社の当日のことはよく覚えている。
本社で入社式が行われた。取り仕切っていたのはS人事課長であり世話役はM課次長であった。会場には約20名の新入社員が緊張の面持ちで座っていた。


入社式

お定まりの社長訓示がありその後一人一人に辞令が交付された。

そこには「試用社員に任ずる」と明記されていた。この会社では当時、新入社員に対しては総て3ヶ月の試用期間を設け、能力や勤勉度を観察した後、問題がなければ7月から晴れて正社員に登用されたのである。もっとも、実際には落第した者は皆無であるとも聞いていた。

なお、この制度は数年後に労働組合から異議が出て廃止となっている。社長の末松氏は貫禄十分な人で体格や態度は堂々としており威圧感もあった。
式後近くの日比谷松本楼で昼食会があり緊張しながら食事を摂った覚えがある。
この時私は強く心に誓ったことがある。それは、これから「サラリーマン」になるというのではなく、「ホケン屋のプロ」になるということだ。サラリーマンは単なる「勤め人」ではなく、誰もがその道のプロであれと思っていたので当然だ。仕事は自分のために努力し、それが結果において社業につながればよいと考えていた。当たり前のことだが、ホケン屋プロとして恥ずかしくない仕事をしようと思った。そのことは今でも鮮明に心に浮かんでくる。

その夜、誰かの提案で新入社員が全員近くの飲食店に集まり、ノミニケーションを図ることになった。各自が自己紹介を行い出身校について各自が名乗ったが、その結果ある特定校に偏ることなく国立私立を問わず満遍なく採用したことがわかった。
採用数は少なく約20名の入社であったが、国立大は約3分の1であり、その他は私大であった。地方の大学も少数いた。
企業には学校閥のようなものがあるところもあるが当社にはなかったようだ。
ただ後になって調べてみるとW、K、Cなどの各大学出身が多いのがわかった。

当日の発会を取り仕切ったのはH君、K君らであったと記憶している。新橋界隈のかなり大きな飲食店の2階座敷での大宴会であったが、皆緊張が解け、心が弾み高揚した気分になり大騒ぎを演じた記憶がある。奇妙なハダカ踊りまで披露した豪傑もいた。強かにサケを飲みすぎて翌日の研修の最中青い顔をしている者もいたが痛快極まりない宴席であった。


初めての大宴会?

葉山の太陽族?

この時、K君から同期会発足の提案があり「56会」と言う名前で情報の交換や親睦を図ろうということになった。
この時の会はその後年おりにふれて持たれ、夏の葉山にある社員寮での海水浴やクリスマスのパーティなど、特に入社後数年間は活発だった。因みに当時は同年代の現東京都知事の
石原真太郎氏の「太陽の季節」という小説が芥川賞を取り話題となり、今は亡き弟の裕次郎氏が大活躍した時代であり、我々は「太陽族」と呼ばれた世代だったのだ。

この会はその後それぞれが転勤したり、役職についたりし会社での仕事が多忙になり、一時下火になったが、会社卒業後も今日に至るまで続いている。今はK君が「56会通信」を主宰し年に2回程度の文書による近況報告を行い、お互いの無事を確かめ合っている。

同期の会は当社には従来なかったが、これを聞きつけてそれ以降他にも波及していった。
初任給は約1万6千円であったが当時は2回に分けて支払われていた。
支給日には課次長のY氏が経理から送られてきた現金を勘定して封筒に詰めて渡していた。このようなやり方はその後数年間続いたと記憶している。

その後、約1週間程度、御茶ノ水にある損害保険会館で全社の合同研修があり、それに引き続いて各社で自前の導入研修が行われた。
中味については覚えていないが、当社プロパーの研修で某役員から生涯学習の重要性と「君たちに払う給与はいずれ倍にして返してもらいたい」という趣旨の話を聞かされたのは覚えている。
研修の最中、大学の先輩社員が歓迎の一席を設けてくれることになった。場所は今でも営業している新橋駅の近くの「新橋亭」という中華料理店であった。
会に出向いてみると10名程度の先輩社員がおり、その中にひときわ目立つ白髪の老人がいた。Kさんという大先輩であり皆この人には一目置いていた。
またこの中で出世頭はKさんという役員だった。この人と別のK.Kさんという人がやたらに大きな顔して威張っていた。何か説教されたような気もするが‥
しかし、先輩はありがたいと率直に感謝した。
これはその後わかったことだがこの役員のKさんはまだ当時40代で若く、かつての当社社長の御曹司とのことであった。肩書きが肩書きだけに皆表面では尊敬のフリをしていたが、会社での評判は今一だったようだ。その後、数年を経たずして不幸にも病に倒れ、回復後一時杖をつきながら出社していたが程なく退社した。健康はサラリーマンのみならず何事においても総ての源だと思う。

最初の職場
研修が終了し各職場に配属になった。
最初の職場は「東京火災営業内務部内務課」であった。場所は本社ではなく馬場先門の近くの岸本ビルであった。帝国ホテルに近く目の前はお堀と宮城前の広場であった。部長はU氏、課長はR.O氏であった。
内務部には内務課と会計課があり同じフロワーには東京営業部があった。
部長のU氏は俳句を趣味にした粋人であったが、句会と誕生会と称して女性社員と会食することだけが楽しみで出社しているような全くナンセンスな人物であった。本人はソバが好きでよく新橋の「砂場」というそば屋に出入りしていた。
また、直接の上長であるO氏はいつも苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、出勤後、自席に座ると先ずお茶を飲み、新聞を机に広げタバコをくゆらしながら半日かかって読み、眠くなると窓から外をボンヤリ宮城広場を眺めているのが日課であった。
机の上にはカラの書類箱が一つだけ置かれ、時折書類にハンコを押すのが仕事であった。この人に何かを具体的に指導された記憶は全くない。叱責されたこともない。何をしに会社に来るのか全く理解しがたい人物だった。

仕事は単純業務で、毎日、来る日も来る日も「所在カード」というものを書かされた。
これは火災保険の契約内容のポイントをカードに書き写す作業でありカーボン紙を入れて鉄筆で書いていた。そしてこのカードをカードボックスと満期通知用のケースに格納することであった。カードボックスは市町村別に仕切られ、所定のファイルに格納することにより、地区別の火災保険契約分布が分かるようになっていた。
少し経つと代理店向けに契約の満期通知を書かされるようになったが、これは対外的な文書でありマチガイは許されなかった。
大学出の私は実戦には役立たず、都立商業高校出身のH君の方がはるかに重要な実務をこなしていた。まずソロバンによる計算能力が全く違っていたからである。
会社では当然数字を扱うことが多いが、この当時の事務処理は真に単純であり殆どがソロバンによる集計が主たるものであった。よちよち歩きのソロバンでは使い物にならなかったのである。
ソロバンといえば当時同期でO商大出のH・K氏は検定一級の資格を有しており、その他大学出身者が入社後、村田簿記学校の先生からソロバンで加減乗除を習うのに四苦八苦していたのを横目で見て笑っていたのを思い出す。
彼は総て暗算でこなすことが出来たのである。頭の中でソロバンの玉が上下に動き計算できるとの事だった。
勿論経験を積むに従い、より高度な仕事に進むのだが、新人にそんな仕事をやらせることはありえなかった。明けても暮れても鉄筆を握り、書き写すだけの退屈極まりない日々であったが、後で考えるとその時、火災保険の基礎的知識をしっかり身につけることが出来たのだった。会社業務には無駄な仕事はないのだ。
一見つまらない仕事でも問題意識を持って独自の工夫や考え方を加えて取り組むのと、そうでなく単に受動的、機械的にこなすのではその後、月とすっぽんほどの違いが生ずることになるのだが、そのときにはそこまで思いが至らなかった。

当時の内務課には後に副社長まで上り詰めたK・K氏や後の組合支部執行委員長になったT・K氏などユニークな優れた人材が居り、多くの感化を受けた。ただ残念なことにこれ等の方々は既に他界されている。
実務に精通していたのは筆頭社員のS・S氏であり、実にいろいろなことを教わり、厳しい注意も受けたが、趣味も多様でアフター5でも酒を飲みながらの話は非常に興味があった。彼は「仕事でも何でも、教えられたことを単に鵜呑みにするのではなく何故?という問いかけが大切であり、物事にはいつも現状でよいか否かの疑問符を付けてみよ」と口癖のように云っていた。
彼は後年代理店のインストラクターになったが、非常に能力のあった人にもかかわらず、社内での遊泳術は下手だったためか評価は高かったとはいえず、確か課長どまりで退職した。
その後、同業のF火災に再雇用され活躍の場を与えられ、長い間インストラクターとして社員、代理店の教育に携わってきた。彼の真の能力が他社で始めて花開いたことになる。 
この時代に上司はともかく、有能な先輩にめぐり合うことが出来たのはまことに幸運であった。

女性社員で印象に残っている社員はM・I女史である。彼女は当時既に30台の半ばであったと思うが、独身で仕事は出来たが、ややエキセントリックであった。和服姿で出社することが多かった。彼女は酒席を好み、私や同期のH君等は時々お相伴に預かった。
姉御肌でトシも大きく開いていたのであまり女性を意識することはなく、殆ど彼女のおごりであった。当時の月給から言ってやむをえなかっただろう。
仕事の面であまり教わった記憶は無いが、社会人のあり方や会社におけるルールやマナーについてはいろいろためになる話をしてくれ大いに助かった。
ただ好き嫌いが激しく、時々感情の起伏が激しくなることがあり、女性は扱いにくいなぁ‥と思ったことが何度かあった。

同じフロアーに東京の企業相手の営業部があり、それぞれ、代理店課、工場課、直轄課などに分かれていた。私は当初花形の営業部に配属されることを願っていたが、かなわず同期のN・I君が代理店課に配属された。
人事の見方では内務部門が適性だと判断したようだ。つまり余り目立つ方ではなく、無愛想で営業には不向きであると見られたようだ。最初にあるレッテルを貼られるとそのことは後々までに影響を及ぼすものである。
私のことを「屁理屈が多く態度が生意気である」との先輩社員の風評も聴いたことがあるがそんなことも影響したかもしれない。その後何回かの組織改変やビル移転などがあったが、結局通算約10年の長きにわたり営業部門に付属した内務部署に所属したことになる。

◆大きな出来事
当時、個人的なことで大きな出来事といえば1960年(昭和35年)に結婚式を挙げたことだ。妻は同じ職場にいた節子である。俗に言う社内結婚である。幸い婚姻関係は現在も進行形であるので、思い出というには早すぎるので、事実を述べるに留めたい。

ご媒酌人は当時の部長で後年社長になられたK.K氏であった。
この方は大変な人格者であり私が在任中もっともお世話になり、また尊敬していた人物だが数年前に亡くなられた。K氏を慕う社員は社内に数多くいたので、かなりの数の媒酌人を引き受けていたと記憶している。
毎年正月には在京者をご自宅に呼び、奥様と共に新年会を開くのが恒例になっていた。数回出席した記憶があるが、皆が地方転勤等で散り散りバラバラになり、自然消滅にならざるを得なかった。非常に義理堅いお人柄で、転勤してもかつての部下のことは忘れることなく、折りに触れて電話を頂くようなことがあった。
私などには到底マネの出来ないお人柄であり、社内でもK氏のことを悪く云う人はいなかった。当然大口契約のトップとの親交も厚く当社に尽くされた功績は計り知れない。

結婚当初は住宅難であり、住んでいたのは実家の離れだったが、程なくして幸い住宅公団の団地に当選し入居できた。場所は埼玉県東武東上線の上福岡というところだった。川越市の手前に位置し、当時は畑の真ん中に東洋一といわれた大規模団地が忽然と現れたというので話題を呼んだものだ。
入居したのは1DKの広さのアパートだったが、鉄筋コンクリート造りで真新しく、モダンな感じで大喜びしたものだ。いわゆる団地族の一員になったのだ。
ただ、通勤には時間がかかった。今でこそ都心まで40〜50分程度で通える距離だが、当時の交通事情は今よりはるかに劣悪だった。志木辺りまでは本数も多かったが、急行や準急の本数が少なく、朝晩は混みようがひどく正に芋を洗うような有様だった。
時間も1時間半程度かかっていた。週末になるとかなりの疲労感を感じた。

ラクチンな勤務時間
入社当時の損保企業は正に気楽な稼業だった。
何しろ全社がハンで押したように、毎日午後4時には終業してしまうので、月末などにある残業を除くと、そのまま帰るわけにも行かず、マージャン屋か、明るいうちから開いている居酒屋で時間をつぶして帰路に着くのが常だったのだ。いつもマージャンやはホケン屋で賑わっていた筈だ。サラリーマンの常で、仕事が終わると伝書鳩みたいにすぐさま家に飛んで帰るなどというのは風上にも置けないヤツだと思われていた。
やはり先輩、同僚等と「ノミニケーション」を取る必要があると勝手に信じていた。また、サラリーマンになりたての頃のホケン屋商売は、全く気楽な稼業だったと云ってよかろう。

ホケン屋の商売
他の民間企業が通常午後5時に終業していた頃、ホケン屋の商売は総て午後4時に終了していた。サマータイムのときなどは、会社を出てもお日様は天中高くカンカン照りだったのだ。もっとも銀行屋は3時に店を締めていたが‥
このことについて当時、他企業の友人等は異口同音に「なんてノンキで気楽な商売なのか‥」とあきれていた。私自身もビックリした。当時の話では損害保険契約は通常、午後4時に始まり、一年後の午後4時に終わるからだ‥と説明されたような気がする。全く訳がわからない話だった。こんな勤務実態が世間で通用する筈もなく、その後何年か後に、就業時間は9時から5時に変更され、やっとフツーの企業になったのだ。

お仕事

仕事の方はその後、契約引き受け、レーティング、保有業務、代理店登録、査定など徐々に高度なものをこなすようになっていった。
この中で「保有を切る」というという仕事に携わったことがあり、この時にリスクをいかに回避し分散させることが損害保険では重要かを学んだ。

職場慰安旅行 (昔はこんなスタイルが大流行)

これは引き受けた契約の量や質により、大規模な災害が起きたときに実質的な支払いを如何に適正に少なくするかという、一種のリスク管理業務である。いわゆる再保険とは密接な関係があり、適正な保有を決めてそれ以外は再保険に売ることである。会社には保有規定というものがありそれに従った運用が要求された。火災などで超過保有の事実が判明すると大きな責任が生ずる反面、優良な物件を賣再してしまうと会社に不利益を与えることになる。
現在は人が手作業で判断するのではなく、コンピューターがルールに従い判断し処理しているものと思われる。
その後、火災事故(小損害)の査定業務に携わるようになり、火災業務に関しては未経験分野は殆ど無くなっていた。
その間上司は数人以上入れ替わり、何人かの新人も配属され、先輩として教育をする側になっていった。いつの間にか古参社員になっていった。既に入社後10年が過ぎようとしていた。仕事の方も一通り経験し、曲りなりにもこなせるようになっていたが、ある種のマンネリに陥っていたのも事実だ。

◆OA機器
当初時の事務処理は殆どが手作業だった。計算事務はソロバンが主力だった。但し、割り算掛け算などはタイガー計算機という手動式の計算機をぐるぐる回していた。私はソロバンは下手くそだったのでもっぱらこれのごやっかいになった。
ボールペンが普及し始めていたが、書いた紙にインクがにじむような粗悪なものも多かった。コピーはもっぱらカーボン紙を入れて重ね書きしていた。


タイガー計算機

コピー機

和文タイプ

電卓

しかし、その後湿式コピー機、超大型の電卓、等が徐々に取り入れられるようになり、少しづつ効率化が図られるようになってきた。だが湿式のコピーは「青焼き」などといわれ、コピーされたものは不鮮明で保存が効かなかった。カラーコピーなどは夢のまた夢だった。
社内通達文書や、法人契約などの証券には和文タイプのものが必要なため、専任タイピストが活躍していた。大型の活字版がありその上に置かれた用紙の上に一時ずつ活字を刻印してゆく仕組みであり、今か思うと真に非能率な代物だった。
数年後にカナタイプという仕組みが導入され、事務の合理化が少し進んだが、モノつくりにはメーカーが早くから合理化に取り組んでいたのに反し、事務の合理化は非常に遅れており仕事の中味に比して人の数が多すぎたと思われる。本格的なOA化が図られ、本当の合理化が図られたのはわずか数年前からである。

1960年代の世の中の動き
この年代の特徴は高度経済成長と学園紛争だろう。
岸内閣の跡を受け継いだ池田隼人内閣が掲げた所得倍増計画により日本の経済は目を見張るような発展を遂げ、1960年代後半にはアメリカに次いで世界第2位の国民総生産GNPを誇るまでになっていた。

東京オリンピック
アテネでオリンピックの「暑くて、熱い戦い」が終わったところだ。日本は久しぶりに大健闘した。だが私は余り関心が無い。
現在のオリンピックはサマランチ会長以降、プロが行う競技会になり、莫大な放送権料によって支えられ、IOC委員にもカネで買収されたり、ドーピング問題がニュースになるなど完全に商業主義の大会になったからだ。

しかし、1964年(昭和39年)の東京オリンピックは多くの国民にとって生涯忘れられない思い出だろう。アマチュア全盛のオリンピックであり純粋だった。クーベルタンの云ったことを実現しようとしていたと思う。
この年の10月10日開会式の日を迎えた代々木の国立競技場に各国の選手団が入場行進するさまは、テレビでも中継され大変な話題を呼んだ。この間は、日本中の人々がテレビの前に釘付けになった。私も入場行進のときテレビを見ていたが、今でも古関裕而氏作曲の素晴らしい行進曲と、当日の少し肌寒いが晴れ渡った青空のことを思い出す。まだ14インチの白黒テレビだったが見ていて感激した。日頃はアマチュアスポーツには興味がなかったがこの時は違った。何しろ 94ヶ国、5500人の選手が参加した大イベントがわが国で初めて開催されたのだから。
当時水泳が強く、ミミの愛称で絶対的人気があったのが、まだ中学生の自由形木原選手だった。日本のエースは平泳ぎの田中聡子だった。当時からアメリカはメッポウ強かったと記憶している。
日本で最初に金メダルを獲得したのが、重量挙げの三宅選手だった。重量挙げの面白さを初めて知った。バーベルを持ち上げるだけの、単純なスポーツだと思っていたのだが、精神を集中してバーベルに向かう姿や表情、掛声に引き込まれてしまい、テレビにしがみついた。テレビの効果は絶大だ。
テレビ視聴率が80%を超える空前の記録を出したのが、日本女子バレーボールが優勝を決めた試合だった。ソ連の力の攻撃を“回転レシーブ”で防ぎ、フェイントや時間差といったテクニックを駆使して攻撃し見事に金メダルを獲得した。
鬼と言われた大松監督の「黙って俺についてこい!」と「東洋の魔女」は、一世を風靡する名文句だった。 男子体操総合優勝の遠藤、鉄棒の小野、ヤマシタ跳びの山下、等が大活躍した男子体操競技。チェコのチャフラフスカの華麗な技が光った女子体操競技等のシーンが次々に思い出されてくる。この時はナント16個もの金メダルを獲得したのだ。

年代は既に1968(昭和43年)年になっていた。この年の春、上司のT課長から北海道札幌支店転勤の異動人事が言い渡された。新天地で新たな気持で働けると思い、心から大喜びした。(04/08/31作成)     もどる

 はたして ♪サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだぁ♪‥   はホントだろうか? 

社会人と一口でいってもこの年月は長く、それまでの倍近くある。これをひとくくりにして書くことはムリだ。いろいろな節目があったのでいくつかに分けて思い起こしてみたい。

サラリーマンは一生の半分近くを職場で過ごす。
家は単に寝るために帰るだけのものだったのか‥

思い出話