第26回 海外の生活と教育を考える会 概要
(2001年12月7日(金) 14:00〜16:30 於:国際文化フォーラム)

テーマ:『第三の開国が本当にできるのか?』
 * 出席 27名。話題提供=向 鎌治郎
カテナ文際交流センター所長
* 司会=小山 和智
(国際教育相談員。事務局)

T.講話の概要

(1) は じ め に
司会から、ここ (国際文化フォーラム) の月刊誌に私が出ていると紹介があったが、そんな十数年前の雑誌をよく取っておられた。私は持っていない (笑)。長年、国際交流に関わる人たちのネットワークのお手伝いをしてきたので、それを元に、最近の大きなトレンド (流れ) についてお話ししたい。とくに、1988年から10年間、「箱根会議」という国際交流の担い手ネットワークの合宿を行った。「様々な立場・属性の人々が交流するところに、未来が拓かれる契機が多く存在する」ことを確認し、互いに認め合い励まし合う大切さを共有することができた。10年経ったところで一旦閉じ、次の段階について、或いは新しい方向性について見直す休止期間を置くこととなったが、新世紀を迎えた今年、第二次「箱根会議」を開催する運びとなった。
1986年頃、外務省の邦人保護課で高校生留学の安全対策の本を作るプロジェクトがあり、私や佐藤東洋士さん (PIEE) も呼ばれた。その時、文部省に挨拶に行ったら 「それは外務省の仕事」と言われ、驚いたことがある。それから直ぐ、 1988年に文部省の学術国際局で高校生交流留学の制度化 (休学しないで留学が可能に) があり、それが初等中等教育局に移管され、そして今年の省庁再編で国際教育課の中に位置付けられることとなった。この点でも国の施策は大きく変わった。東西冷戦が終わり、かつての「世界・国家・国民」の枠組みから「地球・地域・市民」という枠組みへとパラダイムシフトが進んでいる時、私たちはそれにどう対応していけるかを一緒に考えたい。

(2) 自分自身の海外体験から
慶応の大学院での専攻は基礎心理学で、今の仕事とは全く畑が違う。鳩の電気ショックと風の研究をやっていた。大学4年の時、マグロ船に乗って渡米した。父親を大学1年の時に亡くし、とにかく金が無かったので、太洋漁業のマグロ運搬船 (当時、日本からアメリカにマグロを輸出していた) に頼み込んで乗せてもらった。1965年というと東京オリンピックの翌年で、新幹線や高速道路ができ始めた頃だ。日本は、まだまだ発展途上国。何とか 10万円を工面して出かけた訳だが、1米ドル=360円の時代だった。
今振り返って、「モノや施設、技術の無かった時代を知っている」ことが“強み”であったと思う。当時のアメリカは逆に、モノが豊かで、全てが輝いていた。そのギャップを素肌で感じ、感性を通して多くのことを学んだ。コカコーラは透明でいいのにキャラメルで着色していること(コーヒーに近い色ならアメリカ人は抵抗感がない) 。カルピスは英語だと「牛のシッコ」と聞こえること。発酵食品は fermented が「腐っている」と受け取られ易いこと、なども実感で理解できた。人間の社会は、壁にぶつかると保守化するのが普通だが、アメリカは元々“革新”からスタートした国なので、「保守に戻ることが“革新”」という点には魅力を感じる。また、「良いことをすると得をする」という信条、或いは全体を統合していこうとする政治の力がある点も学びたい。例えば、庭に芝生を植える、家の壁を中間色で塗る、窓枠は白くするといったことで街の景観を守ろうとする努力の結果、街の落ち着いた雰囲気が守られているのであって、自然にそうなっているのではない。こうした点を若い人たちにも素肌で感じてきて欲しい。

(3) グローバル化時代の国際理解教育
来春4月から小・中学校、再来年4月から高校で「総合的な学習」の時間が設けられることになっている。その内容には、例として「国際理解」「情報」「環境」「福祉・健康」などが挙げられている。「児童生徒自身が自ら課題を発見し、それを学び、そして課題の解決方法を見出す」ことが主旨とされ、具体的には「たくましく生きる力をつける」「暗記中心を排し、体験を重視」「知・徳・体の全人教育」を目指すこととなる。ここにおける「教養」とは、「知と感性の融合を軸とした人間形成」と定義され、他者との関わり方やコミュニケーション能力等の社会性も含まれる。国際理解教育は、第二次世界大戦後にユネスコによって提唱され、日本にも導入された訳だが、最初は国家間の相互理解、他国理解が中心だった。 1974年にユネスコは「新しい国際理解教育」を提起し、人権の尊重、文化の多様性の理解、地球的相互依存関係の認識と課題の解決への相互協力、国家間の枠を超えた世界市民の育成を訴えた。ところが日本では、独自の「国際化に対応する教育」が実施された。知識としての異文化理解と外国語学習が中心で、人権尊重、地球的課題への取り組みは二義的な扱いとされた。外国語学習も知識と文法が中心で、コミュニケーション能力の育成という面で課題が多かった。
1990年代に入り、世界は「国際化」から「グローバル化(地球規模化)」の流れになる。つまり、「国家」を中心に国際社会を考える従来のあり方が、「地球」を中心に捉えるようになってきた。ボーダレス化と地域間の相互依存度がどんどん進み、また、環境・人権・平和などの地球的な課題も、世界の人々が国境を越えて連帯し解決していかなければならないという「意識のグローバル化」も生まれる。私たちの活動も「国際 (inter-national)」から「文際(inter-cultural)」へ、つまり一人ひとりの“心の中”の問題と捉える必要に迫られた。冷戦構造の崩壊により市場経済が世界化し、ヘッジファンドで世界中のGDP総計の 10倍のお金が動き回っているが、この『グローバリゼーション』は貧富の格差も増大させるという“負”の課題も生み出している。
こうした時代の国際理解教育のあり方、組み立て方を考えると、次の4点になろう。まず「自己理解と他者との豊かなつながり、自然との豊かな共生」である。昔は生物学的な「共生 (symbiosis)」が言われたが、今は仏教的な「共生(ぐうしょう。live-together peacefully )」の感覚が必要だ。第二に「多様性と違いの尊重」で、“変わり者”ではなく“他の人にはない特性”という捉え方が必要になる。第三に「地球的視点をもって、地域に立脚した活動」。最近、「 GLOCAL」という言葉がよく使われるが、「Think globally, act locally」からの造語である。四つ目は「自立と主体的な学習」で、「子供たちに学び方をどう教えるか」という日本の教育界の最大の課題である。経済援助でも かつては食糧や医薬品を供与することだったが、現在では農業や漁業、衛生教育といった形に変わりつつあるのと同様、教育のあり方も変わるべきだ。

(4) 日本の子供の現状
1999年の日・韓・米・英・独の少年調査結果(小5と中2。文部科学省) によれば、「いじめを注意したことが全くない」で日本は 41%(2位は28%)、「嘘をつかないように父親から言われたことがない」で日本は71%(2位は42%) 、「友達と仲良くしなさいと親に言われたことがない」では 日本は81%(2位は36%) と、何とも深刻な状況にある。家庭教育の大切さはいうまでもないが、これでは“怠慢”といわれても仕方ない。
日本型の「教育」と米国型の「Education」 を 私なりに比較対照した表をお配りした。日本型は「学問を与える=教師は教え育てる (teach)」が基本であるのに対し、米国型では「生徒自らが能力と可能性を発見し伸ばす=教師は導く (facilitate)」が基本となっている。評価法も 「減点法→ミスを気にする」 とネガティブな思考に傾き易い日本型に対し、「得点法 →ミスを気にせず他と違うことに挑戦」 とポジティブな思考を生む米国型の特徴が見えてくる。米国型では往々にして「謙虚ではないが 自信を持っている」人材が育つように思う。英語もコミュニケーションの技術だから、ミスを気にせず使っていかなければ覚えられない。それと「自分から気づく」ことも必要。「かわいい子には旅をさせよ」というが、障害や不便な目に遭ってみることが最大の教育となる。「魚を与える」のではなく「釣り方を教える」べきである。
日本の社会のパラダイムシフトは、既に始まっている。「集団の責任→個人の責任」「結果平等→機会均等 (“公平”の感覚の変化)」「タテ社会(終身雇用)→ヨコ社会(年俸契約)」「官→民」「中央政府→地方自治体」など、そしてインターネットの普及や衛星放送で“国境喪失”が起こり、「世界・国家・国民」の枠組みから「地球・地域・市民」の枠組みに変わってきている。英国の私立学校が「Public school」と呼ばれるのは、保護者や地域で資金を出し合って Publicな教育を行うからである。「“公”=我々のもの」と考える訳で、「“公”=官」と考える従来の日本と異なる。 1995年の阪神淡路大地震で“民”の力が見直され、「ボランティア元年」と呼ばれている。これからは“公”にも「自分たちで共有する」感覚が大事で、そこが“開国”の最大の鍵となる。また、「良い子」或いは「フェア (公平)」の感覚も変わり始めている。
アメリカでは市民団体を「第三セクター」と呼ぶが、それらが どれだけ活発に動いているかを見て欲しい。日本では「第一( 官公業)+第二(民間企業)」の時代が長く、YMCAやYWCAが入ってきても「第三セクター」が理解できなかった。「○○県国際センター (協会)」といった組織があちこちに設立されたものの、「知事が理事長、スタッフも県職員、若干名が民間企業からの出向社員」というパターンが多く、活力に欠ける。アメリカでは現在、「CSO (Civil Society Organization)」という呼び方が主流になりつつある。予算的には少ないが、雇用体としては第二セクター (民間企業)よりも労働者数は多い。常に社会の目に晒されていて、「活動が評価されて、お金が集まる →運営できる」という緊張感がある。政府側も「出資者が寄付したいところに寄付させて、税金を免除する」形で支援する一方、行政コストを節減している。日本のNPO・NGO関連の制度も、そういう形に整備していくべきである。

(5) 第三の開国と心の近代化
明治維新は「第一の開国」、第二次大戦後は「第二の開国」 といわれる。そして パラダイムシフトの進む現在を「第三の開国」にもっていけるかどうかに、わが国の将来が懸かっている。“国際化”の形は作れるが、私たちの“内面”が変われなくては“開国”にならない。 決して欧米志向ではない、日本の「開国度」をチェックするポイントを提案したい (順不同で)。
★青少年のコミュニケーション能力の向上 -----英語教育以前に、日本語で論理的に話す訓練が必要である。日本の若者たちもエネルギーはあり、友達同士でよく話すが、改まった話は苦手である。それは大人の背中(本音と建前の世界)を見ているからかもしれないが、まず日本語で論理的に、伝えたいことをきちんと伝えられること、「どういう言い方が正しいか」よりも「何が言いたいか」が明確に表現できることが必要である。
★外国語学習には異文化理解が不可欠 ------外国に行ってみれば、日本の丸暗記英語が空回りするのがよく分かる。「which do you like? 」を「お一つどうぞ」の文化でどう教えられるか。 兄でも弟でもない「brother」を、双子でも「兄・弟」の上下をつける文化でどう理解するか。また、「ハンサム」や「ナイーブ」などの外来語が元の概念と大きく離れていることにも注意が必要となる。これらが押さえられれば、中学生でも同時通訳ができる。
★多文化・多民族社会の発想をもつ -------同じ民族でも多文化があり、“違い”があることを当たり前と考えられれば、外国人との付き合いも円滑にできるようになる。 kmならkm、mileならmileに切り替えて話す。英語なら英語、日本語なら日本語で話す。相手の心の痛みにも共感、或いは想像できることが大事である。田舎を旅行したカナダの高校生が「一番話が分かってくれたのは、お婆さんだった」と話していたが、英語力よりも“開かれたパーソナリティ”が国際性の基本である。
★CSO(第三セクター)の社会に占める比重 ----官業、民間企業と共に“三本足社会”に。とくに民間企業 (第2セクター)とCSOとの協働が推進されるべきである。 ・パブリック=“私たちみんなのもの”という意識 ----「代替エネルギー資源」「環境問題」「リサイクルと資源」「動植物・自然との共生」といった地球規模の課題に目を向ける一方で、地域の問題 (例:ゴミの分別など)にも関われること。「パブリック=“官”」にしないことが、“開国”の鍵である。子供の教育においても、何でも学校に押し付けるのではなくて、「学校・地域・家庭の三者協働 (collaboration)」が大事である。
★子供の教育は「自立」を目標に-----幼い時からの躾や家事分担は、将来の自立のために不可欠。海外のホームステイ受入れ家庭からの苦情で最も多いのは、「すぐ自分の部屋に入ってしまう」だ。「個室=勉強部屋」で育ち、台所の手伝いや居間で家庭内コミュニケーションを図る習慣が身についていないと、「寝室 (bedroom)」の感覚を理解できないし、感謝も知らない。
青少年も含めた日本人一人ひとりの「心のグローバル化」が達成され、「国際化」「国際人」といった言葉が死語になることを願う。

U.自由協議の概要             は話題提供者、 Q, F は参加者の発言


幼い時から「民主的」「自由であること」が大事だとされてきたことが、学力低下を招いているという見方をどう思うか?
言い古されてきたことだが、「民主的で自由」は“放任”であってはならないし、 「基本を叩き込む」ことと矛盾しない。ホームステイに応募する子供たちの親御さんを見ていると、 「向こうで身につけてくること」ばかり考えて、「向こうで失うもの」を考えていない。日本人として生きていくときに知っておくべきことを 親はきちんと教えるべき。日本で主流と思われていることも知っていて 切り替えがきくことが大事なのに、放任か塾任せで平気な家庭は多い。
海外の補習校で教えていると、「地域・学校・家庭の協力がなければ教育できない」ことを実感するが、日本からやってくる子供たちが基本的な学ぶ態度ができていないことに驚く。親は「いろんなことを教えて欲しい」というけど、こちらは日本語の指導だけで手一杯。学ぶ方法と、いざというとき材料が近くにあることくらい、教えておいて欲しいと思う。
日本の学校のルールが「(全員が)〜をしなくちゃならない」になっているから、自分の課題を見つける習慣を身につけ難い。アメリカは「○○と△△はしなくちゃいけない(あとは自由)」という形で 選択肢と責任を明示するので、興味あるものに向っていき易い。また、「どうなったらいいのか」と学習の目標を提示し、形や方法には余り拘らない点も羨ましい。しかし、家庭において一人で生きていく力をつけてから、社会に出て行くべきであって、要は 親の愛情の問題になる。「挨拶ができること」は国際社会で絶対必要なのに、日本の子は教えられていない。かつて、日本の企業も「素直で、言うことをよく聞く人材」が欲しかったし、入社させてから躾もした (なまじ自立されると困った)。しかし現在は、パラダイムが変化してきて「自分でやれ」という時代である。家庭や地域で「基礎・基本」を教え込む力を回復する必要がある。


「地域・学校・家庭の協働」は 1980年頃から言われていたし、あれから 20年、PTAなどを中心に かなり活発に動いていると思う。アメリカでは、日本でいう「協働」と どう違うのか?
PTAには別の問題がある。日本でも、学校と地域の関わりで 地域のもっている問題はあったはずだが、家庭から「学校教育以前の問題」が どんどん学校に持ち込まれている。私の子供時代には、「地域の子供の社会」の機能 (共生の訓練機能)があったが、それを学校に求めても無理。「子供は地域の財産」という感覚を復活すべきだ。地域の大人が躾や体験的学習に関わろうとしても、「あのオジさんに言われるから止めなさい」では教育にならない。「総合的学習」は、少なくとも教科書から離れて 実際の場を体験していく機会の拡大になる訳で、「他の生物を殺さなければ 食べていけない」といったことも知るべきだ。そのためにも、地域や家庭の役割は益々増していくし、新しく対応するものを生み出していくしかない。

                               (以下 省略)



海外の生活と教育を考える会
H O M E