第30回 海外の生活と教育を考える会 概要
(2002年10月17日(木) 14:00〜16:30 於:国際文化フォーラム)

テーマ:『グローバル化と異文化適応能力』
 * 出席 28名。話題提供=原 裕視
(学)目白大学人間社会学部教授
* 司会=山田 峰子
(INFOE 異文化間教育研究センター、事務局)

T.講話の概要

(1) 自己紹介を兼ねて
私は大学を出てから、ほぼ10年ごとに仕事を変わっている。最初の10年は病院で心理臨床をやっていた。その後、企業で経営コンサルタント(人材育成や組織開発)をし、海外勤務をするいわゆる「国際人材」育成の辺りから異文化の方にシフトしていって、次の10年で仲間と事務所を構えた。その頃から教育の仕事に関るようにもなり、今は4つ目の10年に入ったところである。こうして、病院の心理臨床、企業の人材育成、教育といった背景を持っている。
「異文化適応能力」「異文化対応能力」「異文化接触スキル」だとか、「国際性」「国際感覚」などといった様々ないい方はあるだろうが、かつては、そうした用語をキチンと定義して厳密にやっていこうという研究が流行ったこともあった。どういう資質を持った人が海外適性があるかとか、海外で成功するためにはどんな要因が大事だとかいうことを、厳密に調査し分析していこうという時代が1970年代の終わり頃までは盛んだった。しかし現在は、そうした研究や実践をストレートにやる人は余りいなくなっている。
もちろん、そうした研究・実践が否定されたということではなく、現在起こっている問題も その時代と大差がないことは、配布資料の通りである。しかし、後から分析してそういう傾向にあるということが分析され、これが「成功要因」だとことが解ったとしても、そうした個人的要因だけでは"成功"は無理であり、環境作りや訓練も必要であることが判ってきた。現在の異文化適応関係の研究・実践は、そちらの領域に関心が移ってきているといえよう。

(2) 基本的な考え方の誤解
人間あるいは人間の作る集団というものは、正しいことは何かが理解できていても その通りに考えたり行動したりしないものであり、これから渡航する人へのアドバイスも、同じ現実に対して全く逆のアドバイスが必要な場合がある。今日は、そうした「異文化理解」に関して誤解されている部分についてお話をし、皆さんのご意見やご批判をお聞かせ願いたい。
第一の誤解は「現地に説け込むことが大切」と言ったり考えたりされる点である。「早く現地の人の暮らし方・考え方を体得し、同じようにすること」とよく言われ、ともすると"溶け込む"の意味が「日本的なものを捨てて(あるいは 隠して)いくこと」だと受け取られ易いが、それは不可能である。ひとつの社会や文化環境で育つ内に人間は"文化"を育てていくのであって、中性的な(無色な)人間に文化を染めたものではない。それなのに、持っている文化を捨てて新しい文化にしようとするのは無理な話で、あえてやろうとすると (幼い子どもでない限り) 病気になってしまう。
1970年代にアメリカを「人種の坩堝」と呼び、多くの民族や文化が"溶け合っている"と見るのが主流だったが、今では「サラダボール」というのが普通だ。トマトやレタスが多少切ったりして形が変わってはいても、個性は残したままで混じり合っている。もちろん、その上に「We`re American」というシーズニングはかかっている。この状態は、いずれの国家においても多かれ少なかれ同じであって、"溶け込む"は「細かな個性が混じり合う」ことだと理解した方がよい。
第二の誤解は、「理解、相互理解の重要性」が強調される点にある。現在、国際理解教育が盛んに唱えられているけども、どうも「正しい理解ができれば、うまくいく」と考えられているようだ。確かに理解は大切だが、それが最終目標なのではなくて、理解した上でどういう関係を作り上げるかが目標なのである。
そもそも現実問題として「誤解しているから仲良くできる」ということもあるのだし、「相手のことがよく判ったので、もう付き合いたくない」という例も少なくない。日本には古来、「理解した=一致した」という考え方もあるのだが、同じ所、似ている所、違う所、対立している所などをそれぞれ確認できたとき「理解した」という文化もある。しかも、嫌な奴、対立している相手とも一緒に暮らすことになったり、一緒に仕事をしなければならない、さらには成果も挙げなければならない、というのが実社会なのである。相手を理解した上で、どういう関係を築いていけるかこそが大事なのである。
人間は正しい行動ばかりするわけではないし、決して教えられた通りには行動しない。教育に携わる者がこういうことを言うと拙いのだが、正しい教育で人間が正しく動くようになるわけではない。だから、国際理解教育でいくら"正しい理解""正しい教育"をしたって、うまく行かないことは多い。まして「相手のことを悪く言ってはいけない」などというのは論外である。
第三の誤解は「誤解、トラブルを予防する」ということだが、部分的にはできても 全てを未然に防ぐことはできないことが見落とされ易い。異文化間で全くトラブルが起きない状態にするのは不可能である。そもそも私たちは、誤解するようにでき上がっている。人間は五感を通じて外からの刺激を取り入れ、解釈(大脳で概念化、意味づけなど)を行い、評価・判断(文化との照合)し、行動を起こすというプロセスを踏む。このそれぞれの段階において、誤解やズレは必ず生じる。
認知の枠組みで概念化や意味づけがなされるとき誤解が生じることは、比較的理解され易いし、評価や価値判断に文化の違いが反映されることも、よく言われている。しかし、五感で刺激を取り入れる段階も脳が創り出していて、これ自体も心理的プロセスなのである。好きなもの、あるいは逆に、凄く嫌なことには、人間は感度がよくなる。同じものを見たり聞いたりしていても、自分にとって価値のあるものに対しては感度がよくなるし、別の人は全く気づかないことがある。匂いや味覚なども成長の過程で受ける刺激によって形づくられていく。そして個人だけでなく、社会や人間集団によっても感覚は異なる。そうした、ある人間集団に共通しているものが「文化」であって、知覚・感覚のレベルから文化性がある。
"適応"という言葉にはマヤカシが多い。その人が何の目的で異文化の社会にやってきているかによって、"適応"の中身をチェックするしかない。そして、異文化への対応には、「全ての誤解やトラブルを予防はできない」という前提に立って、今生じている認知の違いに素早く気がつき対策が立てられること、そのための感受性・視点を持ち、その前提から相手との関係を創っていくことが大事なのである。

(3) 問題解決能力と確認すること
つまるところ、私は二つか三つのことができれば、まあ やっていけると感じている。一つは「問題接触能力」--- ともかく具体的な問題解決をキチンとできて、それを繰り返していけば かなりのことができる。ただそれが、同じ文化の中(あるいは価値観が揃っている、方向性を共有している、目的が一致しているなど)での問題解決と違うことがずいぶんある点に注意が必要となる。双方が「問題だ」と言っても、同じことを問題にしているとは限らないし、同じ点でも全く違う角度から問題にしていることもある。
問題の所在に関して認識・感覚の違いを確認し、望ましいと思う方向を確認し、対策の手順(能力、経験、文化的に受け入れ可能かどうか、時間などの条件によって方法論が変わってくる)を確認していく--- 全てのステップ、プロセスを確認して入らないと一致して動けないので、面倒くさいし 疲れる。しかし、愚直に「問題解決」を繰り返し積み上げていけるようになれば、人種・国籍・文化などが異なる人と円滑にやっていけるようになるのである。
もう一つは「ストレス・マネジメント」で、本来の自分の力を発揮できる状態を自分自身で維持することである。どの人も、ある程度の「問題解決能力」は持っているのだが、ストレスをあるレベルで制御できる能力がないと、力は発揮できない。だから、この二つがあれば、特別に"海外向け""異文化向け"に勉強しなくても そこそこやっていけるというのが、今の私の率直な感触である。
さらにいえば、海外赴任して、あるいは生活や子育てをするにあたって 互いの支援システムを築き上げていくこと--- 何もかも一人で解決するのではなく、誰かに話すことで解決できることは多いので、海外でそういう受け皿を作ることも大事である。私は日本人学校の現地採用教員研修会(東京学芸大学主催)にも関っているが、最近、子供たちの「心のケア」というか カウンセリングの必要を訴える人が多い。不適応現象も、単純に異文化現象で起こるというよりも、国内で起こっていることが同じように起こるという側面もあるようだ。国内では子育て支援組織を作ろうという風潮が全国で生まれている。カウンセラーだけでなく、消防士や警察官、看護婦の人たちにも必要性が指摘されているが、問題解決能力が個人の資質や要因だけで考えられる時代ではなくなっていることを理解いただきたい。

U.自由協議の概要             は話題提供者、 は参加者の発言


ここ数年、海外から帰国する女子で心理学志望者が多いのだが、女子学生が能力を発揮できる領域なのだろうか?
私見であるが、女性にはとてもよい職業だと思う。失恋、離婚、病気、出産で求職…などは、他の職業ではマイナス要因に位置づけられることが普通だが、カウンセラーの場合は、やり方さえ間違えなければ全部プラスにできる。そして、本来が母性的な「優しさ稼業」なので女性の方が向いているし、実際、好きな人が多い。何も帰国生に限らず、今は国内で心理学がブームになっている。日本の生活条件に“ゆとり”が生まれ、そうした勉強にお金と時間をかけられる時代になったこと(発展途上国ではそうならない)、また、かつては心の病気・悩みは人間の弱さ・未熟さという価値観があったが、それが変わってきていることもある。人間は誰でも、ちょっと条件が揃えば問題・悩みを抱えるもので、恥ずかしいことではない、キチンと対処すればよい、という認識が広がってきている。もう一つ、一見きれいな仕事--- ファッショバブルで格好良いと見られていることがある。勉強を始めてみれば、実際には他人の嫌な話ばかり いっぱい聞く仕事なので、楽しい仕事ではないことが判るのだけど、ともかく今は人気が高くて、あちこちの大学に学部が設置され、競争率も高い。


では、カウンセラーの適性はどういうものなのか?
「人の役に立ちたいという気持ち」「人によく相談されていること」「自分は面倒見がよい人間」といったことのほか、「社会的感覚」「論理的で冷静な思考」「人間に関する勉強量」そして「当分収入にならなくてもやるだけの資金力」である。


去年辺りから、「今まで子供を幼稚園に預けていたが、海外ではずっと子供といるようになるので不安だ」という相談が多くなっている。これは、どう考えればよいか?
子供と向き合うと不安だというのは、キチンとした関係が築けていない証拠。相手の気持ちを理解できない (まさに“異文化”だが)、そうすることに不慣れなのである。これが幼児虐待の問題の根底にもあることで、親までが“子供”になっているといえるかもしれない。しかし、健全な不安、適度な緊張感を持つことは大事で、「一切問題ない」という方が心配だ。解決法としては、仲間と共に作業するプロセスを通して「一人で抱え込まない」や「人と向き合う」ということを体得していくことだろう。
                             (以下 省略)



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