September 05, 2003

モーニング娘。を支えるものは愛情だ。

僕はモーニング娘。が大好きだ。

だから、モーニング娘。に敬意を払う。また、僕らファンも含めた、モーニング娘。に関わる全ての人は、モーニング娘。に敬意と愛情を持ってもらいたいと思う。

だけど、今のモーニング娘。に定着されつつある、「卒業」というものは、果たして、モーニング娘。に対して、敬意と愛情を持っているだろうか? 僕はそうは思わない。

まるで、流れ作業のベルトコンベアで押し出されるみたいに、「はい、あなたは卒業」と強制的に言い渡す制度。そんなものに、モーニング娘。への敬意や愛情があるはずはない。

もっと、彼女らの意思を尊重したっていいはずだ。

あえて認めよう。確かに、今のなっちが、モーニング娘。を卒業するための条件は、いくらか揃っているようには見える。

15人と言う大所帯。焦点が当たるといっても、所詮15分の1だ。すでにソロデビューも果たしているし、これからのさらなる成長も見込める。「モーニング娘。」という枠組みが、彼女を縛り付けている部分もあるかもしれない。

でも、そこで卒業を決めるのは、あくまで、なっち本人であるべきだ。強制的に、「はい、あなたは卒業」なんて言う権利は、誰にもあるはずはない。いや、あったとしても、そんなことを言うべきではない。

なっちがモーニング娘。に居続けてるにしても、あるいはなっちがモーニング娘。から抜けるにしても、変わらずモーニング娘。に、歌うべき歌を与え、モーニング娘。が変わらず続いていくようにする。もし、なっちが自ら卒業を決意したときには、なっちに歌うべき歌を与え、うまくやっていけるようにサポートする。それこそが、モーニング娘。への敬意と、愛情あるやり方じゃないか。モーニング娘。の活動と、なっちのソロ活動を並行するという手段だってある。

僕が、そこまでして、彼女らの意思を尊重してもらいたいのはなぜか? 「愛情」なんていう甘っちょろいことを言うのはなぜか? それは、そういう体制であってこそ、モーニング娘。が持つ、「幸福感」を、表現できると思うからだ。

ザ☆ピ~ス!の、間奏の部分の振り付け。中央でセリフを言う石川に、四方八方から茶々を入れるメンバー全員。あれは、当時のモーニング娘。の中にあった、「石川イジリ」というものが根底にある。

メンバー内の人間関係なんて、彼女らが歌手であるという観点から見れば、「どうでもいいこと」かもしれない。だけど、夏先生は、その「どうでもいいこと」を巧みに楽曲の振り付けの中に取り入れたのだ。そこにあるのは、やっぱりモーニング娘。への「愛情」じゃないだろうか。

さらに話を発展させるなら、あの「ザ☆ピ~ス!」という楽曲が、幸福感に満ちているのは、つんくが、モーニング娘。一人一人のパーソナリティや、その中の人間関係に思いを至らせ、「彼女らにしか表現できないものは何か?」と考えて、あの楽曲を作ったからじゃないだろうか。そこにあるのは、やっぱり、「愛情」だろう。

例示が長くなったが、モーニング娘。は、愛情を持ってサポートされなければならない、と僕は思う。だからこそ、彼女らを、物か何かのように冷淡に扱う、「卒業制」というものには、強く反対する。


追記

僕は、これは、モーニング娘。を愛する全ての人にとって共通の論理であるはずだと思っている。だから、モーニング娘。を愛していながら、なっちの卒業に対して肯定的な人たちは、どこかで見落としや、思い違いをしているんじゃないだろうかと思ってしまう。

定期的な卒業が、モーニング娘。にとって不可欠だというのは、間違った思い込みだ。そんなものがなくたって、彼女らは、モーニング娘。の中で成長し、変化して、常に僕らに、新鮮な感動を与えてくれるはずだ。

Posted by かわべ at September 5, 2003 04:29 AM