人それぞれにドラマが 「大樹」に育てた教育
トーク会で語られたユニークなお話をひろった。
■引き出す教育
明治女学校の教育は、教師がいじくり廻して、盆栽のような人間をつくるのではない。
その人の持っている特性を「引き出して」「大樹のような」人物に育てることだ。それが個性豊かな人材を育てた、と早野喜久江氏が解説。
経済的に困るような学生らには、学校発行の雑誌の漢字にルビを振る仕事や、取材などの仕事を与えたり、幼児教育に関わらせたりして、学費を生ませた。
試験はなかった。
試験のための一夜漬けの勉強に何の意義も認めなかった。
英語に力を注いでいた。卒業生らは、高い英語力を持っていて、翻訳などもしているし、家庭で、わが子に対しても英語を活かして教育していた。
キリスト教に立脚していたが、キリスト教を強制したりすることはなかった。教会とは無関係で、それが財政的困難につながった。
女性として凛(りん)とした生き方を持ちつづけていた。姿勢の曲がっていることを嫌がって、子供たちを厳しくしつけた。
卒業した明治女学校に生涯強い誇りを持っていた。
■個性豊かな
三宅立雄氏は三宅雪嶺・田辺花圃の孫にあたる。
田辺花圃は、小説家で学校では作文を指導していた。樋口一葉を明治女学校が出していた『文学界』に紹介した。雪嶺は、明治、大正、昭和初期の言論界の第一人者。京大総長も、文部大臣も蹴とばしたという在野をつらぬいた言論人。
二人の結婚は、第2大校長の巌本善治が橋渡しをした。花圃に、「紹介したい人がいる」と言って、「しかし、バカかもしれない」と言ったという。ある意味では雪嶺はバカといえる。和服の兵児帯も自分で結べなかった。生活に必要な能力は全く持ってなかった。花圃は、そんな雪嶺を、「自分で支えたい」と言って嫁になった。
本多慶子氏は島崎藤村の3男、蓊助の子である。彼と結婚した母は、わけあって離婚し彼女は他人の家の養女として育った。出版社の小山書店の社長の尽力で、実母のことがわかった。実母は青森の武田家の出で、家号を金木(かねき)という素封家だった。実母の父と、太宰治の父とが兄弟で、太宰治とは又従妹の関係にある。
池尻由貴子氏の祖母の山口義(よし)は、善光寺前で育った。家が横浜で貿易関係の仕事をしていて、当時にあってはずいぶん進歩的だったらしい。だから、娘2人を明治女学校の寄宿舎に入れた。入学したときは、新聞にそのことが報じられた。手元に祖母の武道科の認定証書がある。認定しているのは、星野慎之輔(天知)。
キリスト教系の女学校で、武道の教科があったのは珍しい。
祖母が学習したノート(和紙の綴りで、筆書きのもの)、日記などが残っている。大和国建樹にも教わっている。佐々木信綱夫人となった雪子さんとは大親友だった。
古在由秀氏は、清水紫琴・古在由直の孫。紫琴は小説家で『こわれ指輪』の著作もある。由直(大震災時の東大総長)は、足尾鉱毒事件で、科学者として原因を立証した。家庭でも科学者らしく、過去のことに拘泥せず、昔話をしたがらなかった。(氏は、生日文化功労賞を受けられたが、ご自分のことは全く話されなかった)
森本貞子氏は、東大地震研究所長夫人で、夫君の退職後に藤村研究に入った。藤村の妻となった幽館の秦(はた)冬についての記述には誤りが多い。『冬の家』の著作でこの誤りを正した。
狩野美智子氏は『野上弥生子とその時代』の著者で、弥生子が入学したころの巣鴨が、どんなに田舎だったかを、弥生子の『森』を引いて話された。
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