生きているってくそったれなことだと思わない?
僕は何もしたくないし、何もされたくない。
最低限の権利を選び、最低限の義務と責任を果たしたい。
日本と言う国においては、多分、僕は最低の駄目人間だろう。
駄目人間は、広告と引き換えに様々な情報を享受する。
ゴミの中には、必要なものなんて殆ど無い。だけどある日、
僕らはモーニング娘。と言う情報を、ふと拾い上げた。
それに衝撃を受けた訳でも無く、それを役立てようと思った訳でも無く。
モーニング娘。は低俗なものであり、野蛮なものであり、
慰みものであり、そして、それは一過性のものである筈だった。
それは1998年の僕にとっての真実だった。
そして2003年の真実として、僕らは、モーニング娘。に心臓を貫かれ、
そこから身動き出来ないでいる。
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モーニング娘。の歴史について、「推しメン」主観が入るのは間違いない。
またはサブカル的な視点や、音楽的な視点、ブロレス的な視点がその中心になったりする
のも当然なことだと思う。人の感じ方は人の数だけあるし、愛し方もまた同じだと思う。
でも、僕達はそれぞれの推しメンによって貫かれた胸の傷痕を眺める時、
その意味について考える時、無意識的に、最終的に、モーニング娘。とは何か
と言う命題に突き当たる筈だ。生理的な「好き嫌い」の背後にある大きな流れを
感じる筈だ。とても、とても大きな流れを。
そして、そこには間違いなく最初になっちの顔が浮かんだ筈だ。
娘。が何なのかと言うことを考える時、僕らの思考はそこで否応なくストップする。
僕は、それは思考の放棄では無いと思う。
僕は、それが答えなんだと思う。
なっちの存在が、僕らの伝えたい言葉なんだと。
僕らの心の中でかたちにならなかったものは、なっちとしてそこに存在しているのだと。
僕らの人生におけるある種の素晴らしさは、温かみは、存在によってしか伝えることが出来ない。
僕らはその欠片を言語によって修復していくことしか出来ない。
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モーニング娘。は、萌えを超えた救済を与えてくれた。
なっちが、娘。なんだ。
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楽に死ねる方法が有ったら、そのまま死にたい。
その訳が説明できないから苛々する。僕にはもう余裕が無い。
モーコーでPPPHなんてできないよ。
「ありがとう」も言いたくないし、「おめでとう」も言いたくない。
俺は、泣きながらこんなことしか言えない。
世界はファンとは無関係な方向に向かって流れていくんだろう。
何も変わらないかも知れないけど、嘘は言いたくない。
ずっと言えなかったけど、なっち、好きだ!
なっちのこと、大好きだ!!辞めないで!!