November 24, 2003

なぜ嫌なのかと言えば、それが作為的だからだ

いろいろと考えたんだけれど、僕がなぜ、なっちの卒業に反対するのかと言えば、それが作為的なものだからだ。なっち本人の思いから生まれた卒業ではなく、外部からの命令で行われた卒業であるように感じるからだ。

僕は、モーニング娘。のメンバー全員が、野原に生えた草が育つのと同じように、自然に、健やかに成長して欲しいという願望を持っている。そして、モーニング娘。という集団には、その中にいるメンバーをそういうふうに成長させるような、不思議な力があると思っている。

本来、芸能界と言うのは、大人の事情でがんじがらめに縛られている世界なのだろうと思う。だけど、むしろ、その中でモーニング娘。だけが、自由に、奔放に、無邪気に振る舞っているからこそ、モーニング娘。は痛快なんじゃないだろうか? また、だからこそ、見ている僕らを幸福にしてくれるんじゃないだろうか?

モーニング娘。は自由であってほしいし、だからこそ、彼女らの自由意志は尊重されなければならないと、僕は思う。

「私、安倍なつみは、モーニング娘。を卒業することを、自分で決めました」

僕が欲しいのは、ただその一言だ。この卒業が、なっち本人の決めた卒業であるという表明だ。

「安倍なつみは、モーニング娘。を卒業できることになりました、おめでとう」
「ソロとしても十分やっていける能力があるから、卒業してもいいよね」
「ソロとしてやっていったほうが、むしろ能力を発揮できるよ」

違うだろ、
違うだろ、
違うだろ!

どんなに客観的な理由があったって、そこで決める権利があるのは、本人の意思だけだ。僕はそう信じる。

去年の7/31に、圭ちゃんとごっちんの卒業や、タンポポ、プッチモニ、ミニモニ。の大幅な改変を告げられたとき、僕は怒り、悲しみ、そして絶望した。それはなぜか? モーニング娘。という、確実に幸福を生み出しうる存在が、確実に外部の力によって破壊されうるということがわかったからだ。このことが、今も僕の心の中に、絶望の影を落としたままでいる(当然ながら、この考えは、圭ちゃんとごっちんの卒業やユニットの改変は、本人たちの意思ではないということを前提にしている)。

卒業というのは、モーニング娘。の中にある幸福を破壊する作為的な行為だ。それ以外にどんな意味があるというのだろうか。

今回のなっちの卒業に関しては、「なっちには、ソロとしてやっていける能力がある」という点が評価されるあまり、卒業という制度が本質的に持っている「作為性」が隠されてしまっているんじゃないかと僕は思う。

よく考えて欲しい。次の卒業で選ばれるターゲットが、飯田だったら、矢口だったら、石川だったら、吉澤だったら、辻だったら、加護だったら、高橋だったら、小川だったら、紺野だったら、新垣だったら、亀井だったら、田中だったら、道重だったら、と。

今回のなっちの卒業に、多くの人(といっても、このなちやめに属している人、あるいは賛成をしている人を除いた多くの人、ということだが)が納得したのは、その卒業するターゲットとして選ばれたのが、偶然なっちだったからじゃないだろうか? それ以外の、特に、4期メンより後のメンバーだったとしたら、この卒業は、納得のいくものだっただろうか?

繰り返すが、卒業って言うのは、モーニング娘。の中にある幸福を破壊する作為的な行為だ。僕にはそうとしか思えない。


また、この文章を読んで、僕が、ユニット改変によって5期メンバーが前面に出られたという利点をまったく無視しているように思う人もいるかもしれないので、補足しておく。僕は、5期メンバーが前面に出てくることを、悪いことだとは少しも思っていない。だけど、あの時点で5期メンバーを目立たせたかったのなら、既存のユニットの器を借りるより、別のユニットなり場所なりを作るほうが良かったのではないだろうか。

Posted by かわべ at November 24, 2003 03:05 PM