あらためて“絆”見直す 池袋東口四面塔尊 掲示板「心のともしび」設置
セーフコミュニティの街づくりの原点はここにあった――。東日本大震災を機に地域や人と人との絆の大切さがあらためて問い直されるなか、古くから池袋の安泰と発展に厚い信仰を集める池袋東口駅前公園の一角にある四面塔尊にこのほど、その安全安心の街づくりへの思いを「命の言葉」として掲示する「掲示板・心のともしび」が地元奉賛会(服部洋司会長)の皆さんによって設置され、参詣者の心を和ませている。
掲示板には雑司が谷・法明寺の近江正典住職が日蓮上人の言葉から抜粋した「我われの暮らしのなかで大切な」言葉が住職自らの筆で掲示されている。初回は「人のために夜火をともせば人の明るきのみならず我が身も明し」。誰かのために尽くすことはいずれ自分のところにかえってくる、己を忘れて他を利するという「忘己利他(もうこりた)」の精神を説いた言葉が掲示されている。書はひと月ごとに替えられることになっている。
2月15日の四面塔尊の稲荷大明神の初午祭でお披露目が行われ、服部会長は「この池袋の地でも絆を大切に、心豊かな地域づくりをすすめてゆきたいという思いをこの掲示板『心のともしび』から命の言葉として伝えてゆきたい。安全安心の地域づくりに役立てばうれしい」とあいさつ。
この日は四面塔尊と関係の深い池袋駅から太田稔駅長が出席、池袋東口美観商店会の西武、パルコ、ISP、ビックカメラ、東京信金、巣鴨信金等関係者多数が集まり、近江住職のもと家内安全、商売繁盛、交通安全など祈願した。
近江住職は「そもそもこの四面塔尊成り立ちが災難に遭った人たちを弔い、二度と惨事が起きないよう安全な社会をつくっていくという祈りからこれまで続いてきています。あらためて忘己利他(もうこりた)の気持ちで社会をつくっていきましょう。これが豊島区のすすめるセーフコミュニティの原点では」と参列者に法話した。
また四面塔尊は現在、防犯上からフェンスで囲われているが、縁日復活の意味も込めて3月から月一開放されることになった。
【池袋四面塔尊の由来】
今から約二百八十年前の享保の頃(徳川幕府八代将軍吉宗の頃)高田雑司ケ谷と板橋を結ぶ街道と礫川と東長崎を結ぶ街道付近(現在の西武線池袋駅東口)は、夕方になると追いはぎや辻斬が出没し、夜はその難を逃れる為、通行する人が途絶えた。享保六年の夏、一晩で一七名の辻斬残骸があり、この不祥事を憂いて、池袋村民有志六十四人が雑司ケ谷鬼子女神威光山法明寺第二十二世日相上人に供養をお願いし、享保六年九月、法華経のお題目を刻した石塔を建立して無縁仏の霊を供養した。正面にはお題目、右側面には北方板ばしみち、左側面には、南方高田雑司ケ谷道が記され、道標としても使われた。この塔は四面塔尊と称され、以来、法華経の功徳により災難は解消された。
明治時代になり池袋周辺は近代化の開発の波が襲い、東武鉄道と西武鉄道の開業により四面塔が在った場所は区画整理を受けて塔は駅前に強制移動された。移動に関った作業員が相次いで事故死したため、毎年四面塔を秦じる祭が在ったが、太平洋戦争の勃発により祭は中断し周辺は空襲や戦後混乱で荒廃。戦後混乱も終息し再び駅周辺は開発が始まり、1955年(昭和30年)駅前に丸物デパートの建設により、駅前から現在の土地にまた強制移動された。丸物デパートの建設中事故が頻発した為、デパート関係者は地元の有志と協力して四面塔を新装し、祟りの終息を祈願した。しかしその後、デパートは完成したものの丸物デパートは潰れた。人々は「塔を動かしたから」と噂した。現在でも池袋パルコでは月一のお参りを欠かさないでいるという。
【池袋四面塔尊奉賛会】
名誉会長=宮田和昌、会長=服部洋司、世話人=大熊良幸、津島徳男、石井浄丈、清水泰子、菅澤省吾
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