その日、私はボンヤリと永田町にあるオフィスのデスクから外の景色を眺めていた。
花曇で、窓のすぐ傍には、見慣れた首都高速道路とその向こう側に衆議院議長公邸や自民党本部のビル、国会議事堂も見通すことが出来た。このあたりは、わが国政治の中枢となる街でもある。
ここはいろいろな意味で面白い街だった
当時の勤務先オフィスは砂防会館の向かいであったため、著名な大政治家?諸侯と遭遇したが、食事時に現在はテレビタレントとして活躍している「ハマコー親分」が、子分?を数人引き連れて歩いていたのを思い出す。小柄だが眼光鋭く、あたりを睥睨していた。
ビルの屋上や付近は多くの警察官が常にうろうろしていたし、何かあるとマスコミ報道陣でごった返していた。右翼の街宣カーもひっきりなしに何かガナリ立てていた。 |
「これで見納めだなぁ」と思ったが特に感慨は湧いてこなかった。1989年(昭和64年〜平成元年)3月末日、満55歳定年となり長年勤め上げた会社とお別れする日のことだ。実に33年の長きにわたり勤め上げたことになる。
  
上は砂防会館
右は議長公邸
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当時の社会情勢
一言でいえば「昭和の終焉」と「バブルの崩壊」ということだ。
この年の1月7日、在位64年に及ぶ昭和天皇が崩御した。わずか7日で昭和64年は平成元年になり、現在の天皇が皇位を継承した。そして数年間続いた未曾有の好景気も急速に萎んだ。湾岸戦争を契機にして一本調子で上がり続けた株価と地価は一気に下落した。これは大きな社会問題となり、その後遺症は、現在もなお尾を引いている。
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この年、会社に「60歳定年延長制度」が導入された。
再雇用制度を選択し、向こう5年間「専任社員」として雇用契約を結び、勤めることも可能だったが、私は人事部の勧めで子会社に出向する道を選んだ。
私の最後の職場は「首都圏損害調査部」という部署だった。
管下社員は数十名の多さだったが、全員関東6県ならびに新潟に点在しており、東京のオフィスにはただ一人、I副部長が居るだけの職場だった。普段、社員と顔を合わせる機会は殆どなかった。出先センターやオフィスの責任者とは月一度の会議を招集して業務上の打ち合わせや、コミュニケーションをとったが、一般社員とは出張のときに声をかける程度の希薄な関係だった。
12月から1月ごろにかけて管下社員の人事考課と異動構想をまとめ、人事部と協議を済ませ、後任の人事が内示されると後始末と連日続く送別会に顔を出すことだけだった。
3月に入り、事務引継書もごく簡単に済ませると暇になったので、2週間ほど長期休暇をとり奥方と米国を旅した。初めての海外旅行だった。
それまで「休暇」というものを殆ど取ったことがなかった。
20年勤続、表彰時には会社から1週間程度休むようにお達しがあったが休まなかった。理由は超多忙?だったからだ。休みも返上の日々だった
幸い健康に恵まれ、病気らしい病気もせず過してこられたのは本当に幸運だったが典型的なワーカホリックだった。
最後の日、管下社員宛、お別れのあいさつ文を便箋にしたためたときは流石に少し感傷的になった。
十数か所に上る拠点宛にファックスすると、やる事はなくなった。現在だと、さしずめ、社員宛にメールでも出すところだろうが、当時はそのようなシステムはなかった。
少しばかり未整理の机の中のものを破棄したり、私物をカバンに入れたりしているうち退社時刻となり、同室のI副部長に声をかけ近くの飲み屋で乾杯した。
彼には感謝の気持ちで一杯だった。前述のような職場環境で私は各拠点への出張が非常に多く、席を暖めるヒマがなかった。留守中は彼が私の代行すべてを行ってくれたのだ。
翌日から子会社で「新たな門出だ」とは言え、なんともいえない寂しさはぬぐえなかった。小一時間ほど歓談し、女性社員からいただいた花束を抱えてタクシーに乗った。
帰宅したとき奥方がなんと言ったのかは覚えていないが、改めてサケを飲みなおした。多分したたかに酔っ払ったと思う。
長い間の「ドサ回り」が終わり、東京にもどってからの数年間は、あっという間に過ぎた。この間のことをくどくど書いても始まらない。
更に良く考えてみると札幌から一度東京にもどった時期があり、3年間、本社管理部門で過ごした時期があったのだがこのことについても省略する。
退職挨拶
現役を離れて20年近くなると、退職や転勤のご挨拶状をいただくことも殆ど無い。
今まで私は、「陽春の候」云々、「私こと…」と始まる、決まり文句で印刷されたこの種挨拶状に対しても必ず、はがきでご返事を差し上げてきた。出来るだけ丁寧に、その人の顔や仕事ぶり、お付き合いの数々のことを懐かしく思い出しながら… |
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