(1)1940年代まで

 イェフディ・メニューインは1916年4月、ニューヨークに生まれた。両親はユダヤ系ロシア人である。シグモント・アンカーとルイス・パーシンガー、後にはジョルジュ・エネスコアドルフ・ブッシュに師事したが、ヴァイオリンの技巧は独学で体系的には学ばなかったという。本人はハイフェッツのアコースティック期のレコードを聴いて同じように弾こうと猛練習したら実現した、そしてあまりにも簡単に身に付いたので、失われるのも速かったと語っている。実際、戦前の神童期の録音を聴くとハイフェッツ張りの強靱な技巧に圧倒される。戦後スランプを経験し、カール・フレッシュの教本をさらうなど改めて体系的な技巧を身に付けようとしたそうだが、1950年代後半以降の録音に若い頃の超絶技巧が見られないのも事実である。

 話が戦後に飛んでしまったが、メニューインは神童ヴァイオリニストとして、7歳でデビューした。1927年(11歳)にはカーネギー・ホールでフリッツ・ブッシュ指揮のニューヨーク・フィルとコンサートを行い、1929年(12歳)にはブルーノ・ワルター指揮のベルリン・フィルと共演して、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスの協奏曲を演奏した。このコンサートは圧倒的な成功をおさめ、なかば伝説と化している。このコンサートを聴いた物理学者アインシュタイン(自身趣味でヴァイオリンを弾いていた)は「神が存在することを確信した。」と語ったという。またクラウディオ・アラウは「あれは、これまで聴いた演奏のなかで、最大の経験の一つです。」と語っている(J.ホロヴィッツ 野水瑞穂訳『アラウとの対話』)。

 メニューインの最初の録音は1928年3月(11歳)に行われた米ビクターへの4曲の小品である。米ビクターには1929年2月にも8曲の小品を録音している。(伴奏はパーシンガー)。これは後述のブルッフの協奏曲第1番との組み合わせでBiddulphから復刻されている。("The Early Victot Recordings" LAB031)。大恐慌の影響で米ビクターはクラシックの録音を休止したため、英HMVに移籍し、11月には最初の大曲バッハ:無伴奏ソナタ第3番を録音した。1931年には専属契約を結び、ブルッフの協奏曲第1番を録音し、1932年には作曲者指揮でエルガーの協奏曲を録音した。戦前の録音については3.戦前・戦中の録音で詳しく述べることにする。

 エネスコに師事したために、1930年からメニューインはフランスに住むことになる。young Menuhin1メニューインはエネスコから最も強い影響を受けたと語っている。エネスコやピエール・モントゥー、ジャック・ティボー、アルフレッド・コルトーらと私的に室内楽を演奏し、エネスコの指揮で数多くの演奏会や録音を行っている。エネスコは無償でレッスンを行い、『エネスコ回想録』(松本小四郎・富田弘共訳)に「十歳の彼が弾くショーソンの『詩曲』には、三十歳のヴァイオリニストのような深みがあった。しかも、その驚嘆すべき技巧もさることながら、彼のヴァイオリンには、詩情と恍惚の境まで高揚するような情熱が溢れていたのである。(中略)かつての神童は、今や卓抜したヴァイオリニストになっている。その精神は今も昔も同じままである。情愛の深さ、その寛大さも昔のまま。恩師に対する熱意のこもった崇拝の念も、その忠誠心も昔のままである。私はこれまで一度たりと、彼に失望したことがなかった。それどころか、時が経つにつれ、彼に感動することが幾度もあった。」と書いている。

 メニューインはポール・パレーやウィレム・メンゲルベルク、アルトゥーロ・トスカニーニらの名指揮者やアルトゥール・シュナーベルとも共演している。特にトスカニーニとの交友には多くの逸話がある。メニューインはトスカニーニの招きに何度も応じ、私的に演奏した。ミラノではモーツァルトの協奏曲第7番の緩徐楽章を演奏中に電話が鳴り、憤ったトスカニーニは壁から電話線をむしり取って「これでもう邪魔なしに音楽を楽しむことが出来る。」と言ったという。また、伴奏ピアニストの譜めくりを買って出たこともある。

 1935年には世界ツアーを行い、12月から1936年11月にかけて膨大な数の録音を行っている。1936年から約1年間演奏活動を中断したが、1937年12月、カーネギー・ホールでのシューマンのヴァイオリン協奏曲のアメリカ初演で復帰した。(10月にサン・フランシスコで世界初演をする予定だったが、ナチの声明によって中止に追い込まれた。)復帰後もハンサムな青年ヴァイオリニストとして人気はますます高まり、ハリウッドから映画出演の依頼もあったという。

 この時期の演奏は強靱な技巧、輝かしい音色と火のでるような情熱に加えて高度な芸術性を感じさせる。協奏曲やソナタの両端楽章では白熱した演奏を行い、緩徐楽章やバッハの無伴奏曲では遅いテンポでじっくりと歌う。あらえびすは『名曲決定盤』で「メニューインを一度聴いた人たちは、その重厚な気品と、高邁な気魄に敬服せざるはない。」と述べている。また野村光一は、1947年頃撮影され日本では1951年に上映された映画「巨星メニューヒン」(ブルーノ・モンサンジョンによるドキュメンタリー"Yehudi Menuhin -The Violin of the Century" EMI にその一部が収録されている。)について「彼が弓を大きく使い、悠々迫らざる態度で古典曲を熱演している時は、まるで野球選手がホームランをかつとばす時のように爽快味を痛感させる。(中略)あんな迫力のある端的な演奏は今の世の如何なるヴァイオリニストも成し得ぬところであろう。あれはベーブ・ルースのホームランに匹敵する。」と書いている。(『芸術新潮』1951年10月号「メニューヒンのテクニック」)。ただ、1935年頃からの録音には、量産したためか若干緻密さに欠けた演奏も含まれている。

 第2次世界大戦にアメリカが参戦すると、メニューインは連合軍と赤十字の慰問公演を行うことになる。1日に3回演奏することもあり、全部で500回を超えたそうである。1943年には爆撃機に乗ってイギリスを訪れ、イギリス全土で演奏会を開いた。その際自由フランス政府のためにも演奏を行い、ド・ゴール将軍からロレーヌ十字賞を贈られている。1944年には解放直後のブリュッセル、アントワープ、パリで演奏会を開き、1945年にフランスのレジヨン・ドヌール勲章を受賞した。慰問公演の過労のせいか、最初の結婚の失敗のためか、このころから演奏の出来不出来の差が激しくなる。young Menuhin2出来の悪い時は遅いテンポで大味な演奏になるか、せかせかしたテンポで暴走してしまう。また、技巧的には問題ないがどこか生気のない演奏も多い。ただ、曲や演奏会の前半は不出来だが、後半になって興が乗ってくると別人のように素晴らしい演奏をすることがある。最後の数小節だけを完璧に感動的に弾いたとか、アンコールだけ良かったという逸話もある。大味な演奏の例としてラロのスペイン交響曲(2)(1945年)ブラームスの協奏曲(1) (1943年放送録音)等が挙げられる(後者は戦前の録音がないだけに全盛期のスタイルを伝える貴重な記録、と最近評価を改めた)。暴走する演奏では同曲(3)(1947年)の第3楽章や1951年日本録音の小品集が挙げられる。生気のない演奏ではフルトヴェングラー/ルツェルン祝祭o.とのベートーヴェンの協奏曲ブラームスのソナタ第3番(2)(1947年)などがある。もちろんこの時期以降にも素晴らしい録音は存在する。録音の出来不出来については4.ヴァイオリン協奏曲5.ヴァイオリン・ソナタで私の評価を示した。★★★以上は名演といえる。

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 メニューインは4つのBが重要な作曲家と語っている。通常はバッハ、ベートーヴェン、ブラームスを3Bというが、それに加えられるのはバルトークである。1943年11月メニューインはソナタ第1番の演奏会の前に、young Menuhin4作曲者の助言を乞うためバルトークのもとを訪れた。この演奏会を聴いたバルトークはメニューインの演奏に感心し、友人ウィルヘルミン・クリールへの手紙に「彼は偉大な芸術家だ、彼は同じ演奏会でバッハのハ長調のソナタを雄大で、古典的な様式で演奏した。私のソナタの演奏も非常に素晴らしかった。真の偉大な芸術家にとって、作曲者の助言と援助は無用である。」と書いている(H.Stevens "The Life and Music of Bela Bartok")。これがきっかけとなり、メニューインはバルトークに無伴奏ヴァイオリン・ソナタを委嘱することになる。作品は1944年に完成し、同年11月メニューインによって初演が行われた。バルトークは「あれ以上望むことはなにもなかった。あらゆる期待をはるかに上回っていたよ。」と語ったという(ファセット 野水瑞穂訳『バルトーク晩年の悲劇』)。メニューインは同年9月に協奏曲第2番のイギリス初演、1946年1月に最初のスタジオ録音を行うなど、バルトークの作品の普及に努めた。しかし、残念ながらその録音無伴奏ソナタの初回録音(1947年)は不調時の録音のようである。

 furtwangler大戦中は連合軍の慰問公演を積極的に行ったメニューインであるが、他のユダヤ人演奏家とは対照的に大戦直後のドイツで演奏を行った。まずベルゼンの収容所での演奏会を計画し、それにはベンジャミン・ブリテンが伴奏者として随行した。(最初の予定はジェラルド・ムーアだった。)しかし、収容所の惨状は演奏どころではなく、ブリテンはこの体験について決して人に語ろうとしなかったという。ベルリンでは連合軍の兵士のための演奏会の他に、ドイツ人のための演奏会を開いて論議を呼んだ。1946年にはセルジュ・チェリビダッケ指揮のベルリン・フィルと共演した。メニューインがヴィルヘルム・フルトヴェングラーを擁護した話は有名である。フルトヴェングラーが多くのユダヤ人音楽家を救うために尽力したことや、占領地での演奏を拒否したという話を解放後のフランスで聞いたことがきっかけとなったという。そしてベルリンで独自に調査を行い無罪を確信することになる。1947年8月、ブラームスの協奏曲で初共演し、ベートーヴェンの協奏曲の録音も行った。同年9月のベルリン・フィルとのライヴは超名演である。その後も共演を重ね、1949年にはブラームスの協奏曲を録音している。



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furtwangler  最後にメニューインの音色について述べることにする。この時期(1950年代半ばまで)のメニューインの音色はカンポーリやパールマン、オイストラフに近い、硬質で線の太い非常に輝かしい音である。ところが、不調時には楽器が鳴らない痩せた音になることがある。その例として前述のブラームスの協奏曲や1944年録音の「亜麻色の髪の乙女」(p:バラー、RCA)、フリッチャイ指揮RIAS so.とのチャイコフスキーの協奏曲の1949年ライヴ(DG)などが挙げられる。メニューインの音色についてはメニューインについて(2) 1950年代以降でも触れる予定である。








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